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江川紹子の「事件ウオッチ」第133回

江川紹子が【『表現の不自由展』中止問題】を考察…言論・表現の自由を後退させないためには

文=江川紹子/ジャーナリスト
江川紹子が【『表現の不自由展』中止問題】を考察…言論・表現の自由を後退させないためにはの画像1
「表現の不自由展・その後」に展示されていた少女像(写真:YONHAP NEWS/アフロ)

「私はあなたの意見に賛同しない。しかし、あなたがその意見を主張する自由は、命がけで守りたい」

 言論・表現の自由とは何かを的確に言い表した名句を、今こそかみしめ、実践しなければならない。そんな気持ちでこの稿を書き始めたら、残念なニュースが飛び込んできた。

 愛知県美術館などで行われている美術展「あいちトリエンナーレ2019」で、戦争中の慰安婦を象徴する少女像などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」が、抗議の電話やメールが大量に寄せられ、中止を発表した。

 今回は、この問題の本質はなんなのか、を考えたい。それは本稿の中盤から展開する。

「公金イベント」をめぐる的外れな批判

 その前に言っておきたいのは、主催者への抗議のなかに、「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と、京都アニメーションの事件を思わせるFAXもあった、という点。こうした悪質な脅しについては、愛知県警は徹底した捜査を行ってもらいたい。

 気に食わない表現活動を、脅しによって封殺しようとするのは、同企画展に対する威力業務妨害というにとどまらず、表現の自由を掲げるわが国に対する重大なテロ行為である。また、このような脅し文句は、京アニの事件で奪われた35人の命や、それを悲しむ多くの人たちに対する冒涜でもあって、断じて許しがたい。

 脅迫行為の主がきちんと突き止められ、検挙され、法の裁きを受けることが、こうした事件の再発を防ぎ、言論・表現活動の萎縮を防ぐためには肝要だ。来年のオリンピック・パラリンピックを控え、「テロを許さない」という国の姿勢を示すうえでも、このような事件をあいまいにしてはいけない。

 愛知県知事は、主催者を代表して被害の届けを出し、県警に徹底捜査を要請し、かつそのことを公にするべきだ。政府も、こうした卑劣な脅迫行為には断固たる対応をするよう、警察庁を督励してもらいたい。

 今回の企画展については、政治家の言動も問題になっている。

 河村たかし名古屋市長は、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。いかんと思う」などと述べて、少女像の撤去を求めた。企画展の中止が決まった後も、「やめれば済む問題ではない」として、謝罪を要求。少女像の展示は「『数十万人も強制的に収容した』という韓国側の主張を認めたことになる」と語った。

 自民党の保守系議員らの集まりが、この少女像について「事実上の政治プロパガンダだ」として、「公金を投じるべきでなく、国や関係自治体に適切な対応を求める」との意見表明を行った。さらに、代表者が首相官邸で西村康稔官房副長官と面会。西村氏は「自民党愛知県議団を中心に対応を始めている」と応じたという。

 日韓関係の悪化に伴い、国民の間でも韓国に対する批判や少女像に対する反発が高まっているとしても、それに乗じて、言論・表現への抑圧を画策するのは、自由と民主主義を重んじる政党の政治家がやるべきことではない。

 今回の企画展の意図は、何も韓国側の主張を是としてPRしているわけではないうえ、言論・表現の自由を守ろうとするなら、冒頭に紹介した言葉のように、異なる意見の表明の場を守らなければならない。

 ついでに言えば、「よい作品」だから守るのではなく、「ダメ作品」についても表現する自由は守らなければならない。ダメさ加減は、それを批判するか、あるいは無視することで対応すればよいのだ。表現の自由を守ることは、何も表現内容を認めたり、賛同することとはまったく違う。展示によって「韓国側の主張を認めたことになる」と発言した河村氏は、表現の自由について、まったくわかってないのか、それともわかってないふりをしているのか……。

 さらに、政府の立場に合う言論・表現でなければ公的支援は行わない、などという事態になれば、栄えるのは政府のプロパガンダばかりということになる。美術だけでなく、演劇やオペラなどを含め、表現は窮屈になり、日本の文化はやせ細っていく。

 しかも、税金は、政府の支持者からのみ集めているわけではない。自民党の武井俊輔衆院議員はツイッターで次のように述べている。

<「国益に反するものに税金投入はおかしい!」確かにその論は受け入れられやすいが、国益が何かという定義は国民の皆さんそれぞれに考えがあり、政治の側がそれを言い立てることには、くれぐれも慎重になければなりません>

<間違えてはいけないのは、税金は政府や行政に批判的な人でも納税しているものであり、それを再配分するもの。政府や行政に従順、ないしは意向に沿ったものにしか拠出しないということでは、決してあってはならないということ>

 まっとうな見識と言うべきだろう。

 さらに、日本維新の会の品川区議会議員である松本ときひろ氏のこんなツイートもあった。

<私は表現の自由に大きな価値を置きます。現代アートは政治的表現を内包することが少なくない。現代アートに公金を支出すると決めた時点でそれは前提であるはず。例え野蛮でも違法に至らない物を表現内容で撤去して良いのか。批判又は対抗展示で戦う手段もある。なお展示内容は不快この上ありません>

 維新系で、このように言論・表現の自由を適確にとらえて発言する政治家がいるというのは、私には驚きだったが、松本氏の発言は、冒頭に紹介した言論・表現の自由の本質を突いていると思う。

 そういう良識的な意見よりも、展示に圧力をかける政治家の動きが悪目立ちしているのが、嘆かわしい。メディアも、声が大きく派手に立ち回る政治家ばかり追いかけるのでなく、まっとうな政治家の良識ある声もきちんと報じるべきだ。

「怒れる個々の人々」にどう対応すべきか

 そのうえで言うのだが、今回の出来事の本質は、そうした脅迫や政治家の圧力といった問題とは別のところにあるように思う。

 ネットやマスメディアでは、「ガソリン携行缶」の脅迫や名古屋市長など政治家の圧力など、わかりやすく語りやすい「言論弾圧」の形ばかりが話題になっていることに、私はいささか疑問を抱いている。これらも大事だが、そればかり見ているのでは本質を見失う。

 では、本質は何か。私は、それは「怒れる個々の人々」の感情の爆発と集中にどう対応するか、という問題だと思っている。

 芸術監督を務めるジャーナリストの津田大介氏の記者会見によれば、中止を決めたのは、こうした一部の脅しや政治家の圧力というより、激しい怒りの電話が集中したことが最大の原因だった。

「事務局の電話が常に鳴っている状況。一昼夜続いた。そこがパンクし、つながらないとなると、県立美術館や文化センターにかける。(そこの職員は)そういう電話が回されることも知らない。待たされてさらに激高している状態の人が、事情を知らないオペレーターの方に思いをぶつけてしまう。それがひっきりなしに続く状況を目の当たりにし、続けられないと判断した」(津田氏)

 これまでの嫌韓デモなどを思い起こしても、おそらく抗議の主の多くは、普通に社会生活を営んでいる個々人だろう。そういう人たちが、日韓関係の悪化をニュースなどで知り、慰安婦問題などでの韓国側の対応に憤慨しているところに、この企画展を知り、怒りに駆られて電話をした、という状況ではないか。

 今回に限らず、感情的になった人々が、激しく執拗な抗議電話で相手を攻撃する現象は、日本社会ではもはや定番になっている。それに伴い、企業はクレーム電話対応などを進化させているが、学校や役所などは対応が立ち遅れているようで、長時間・多数の抗議電話で業務がストップしてしまうこともある。

 たとえば、親による虐待で女の子が死亡した事件があった千葉・野田市では、教育委員会の職員が学校でとったアンケートの結果を父親に見せてしまったことなどもあり、全国からの激しい抗議電話が集中した。業務に支障を来したため、ようやくコールセンターをつくり職員が交代で対応したが、1人で何時間もしゃべり続ける者もいたという。

 不祥事案だけでなく、今回のようなケースも、電話をする方は自分に正義があると確信しているので、激しい怒りをぶつけることにも、長時間他人の時間を奪うことにも、なんらの慎みも遠慮も躊躇もない。それが大挙して押し寄せることで、受ける組織には大きな圧力を及ぼす。

 主権者たる国民が意思を表示する自由は守らなければならない。そのため、自治体などの公的セクターの人たちは、極力その抗議を受け止めようとする。しかし、その自由や権利も無制限なものではなく、公共の福祉との調和が図られなければならない。

攻撃に抗う覚悟と効果的な対応

 私が新聞社に勤めていた頃、霊感商法の問題を書いたところ、おびただしい抗議電話が来て会社の通信機能がマヒしたことがあった。翌日もこれが続いたため、私の上司だった社会部長が筆を執り、署名入り記事でこう宣言した。

「“暴力電話”には屈しない」

 その記事は、書き出しと最終パラグラフに、こう書かれている。

<暴力は、どんな形にしろ絶対に容認できない。電話によるいやがらせは陰湿なうえに、数にモノを言わせたものは組織暴力である>

<わたしたちは、こうしたいやがらせ電話を言論の自由に対する重大な挑戦と受け止めている(中略)暴力に屈するわけにはいかない>

 30年以上前のものだが、今読み返しても、ここに書かれた内容や上司の対応は正しかったと思う。この時の電話攻撃は、統一教会の信者が、上司から指示されてやっていた組織的なものだと、だいぶ後からはっきりした。

 近年の個々人による抗議電話は、組織暴力とは異なるし、それぞれが意見を表明する自由も大切にしなければならない、という難しさがある。しかし、それでも度を超した怒りの爆発や長時間にわたる抗議などは、暴力とみなすべきだろう。

 役所などのパブリックセクターであっても、無制限に電話暴力に対応する必要はなく、職員を守る方法をとってしかるべきだ。また、テロリストの要求に応じてはならないように、暴力で言論・表現を封殺しようとする風潮に抗うには、それが功を奏しないことを示すしかない。

 それを考えると、今回、暴力に言論・表現活動が屈してしまう結果になったのは、返す返すも残念でたまらない。コールセンターを設置し、非通知の電話やFAXは受け付けず、会話は録音し、電話の時間制限を設け、会場の警備を強化し、入場者の手荷物検査も行うなど、さまざまな方法を動員してなんとか続けられなかったのか、という思いが拭えない。

 主催者側は、ここまでの激しい反発を食らうことは想定できていなかったようだが、それはやはり見通しが甘かったと言わざるを得ない。ツイッターでその点を指摘すると、多くの批判や非難が寄せられた。

 しかし、いくら非難されようと、あえて言わなければならない。言論・表現の自由は、それに対する攻撃には抗う覚悟と効果的な対応がなければ守れない、と思うからだ。犯罪予告のようなものは、警察が適切に対応しなければならないが、そうでないものは、まずは当事者が戦わなければならない。そして、できるだけ状況をオープンにして、多くの人が情報を共有し、その戦いを支える構図が必要だろう。

言論・表現の自由が守られるために

 ただ、当事者に不安をもたらす抗議の主が、テロリストや一部政治家ではなく、一般の個人の人々である場合にどうするかは、難しい問題だ。

 そのうえ、言論・表現の自由を常日頃から意識する機会が多い新聞社とは違い、今回のイベントの主催者である愛知県の職員は、最悪の想定と、それにどう向き合うかという心の準備もなく、問題意識も共有できず、対策も不十分なまま、理不尽なまでの攻撃にさらされて疲弊したのではないか。

 その結果、津田氏も認めているように、「『電凸』で文化事業を潰すことができてしまうという成功体験、悪しき事例をつくってしまった」。今回、このような方法が功を奏したことで、今後、次のターゲットとされた言論・表現に対して同じことがなされる懸念もある。

 つまり、政治家の圧力や右翼などの組織による街宣行動など、目に見えやすいかたちで言論・表現を潰したのではなく、“怒れる個々の人々”が一斉に電話をかけるという、外からはわかりにくい、誰にもできる方法でなされ、それが大きな圧力になって、言論・表現をストップさせる手法が繰り返される、という懸念である。

 もっとも、このような「怒れる個々の人々」の感情が電話で押し寄せる現象は、今回いきなり起きた新手の手法というわけではない。「電凸」によって要求を実現させる「成功体験」は、ここ何年かで積み重なっている。言論・表現の自由に関わるテレビ局なども、抗議電話によって人手が割かれたり、スポンサーにまで抗議が及ぶことを気にしている。大学や自治体も同じで、抗議によって講演会などが中止になったり、さまざまな事業やイベントが取りやめになったりした。

 そういう事例が積み重なった結果だろう、抗議のターゲットにならないよう、政治的な課題については距離を置くようにしたり、番組内容を変更する、という“事なかれ主義”もじわじわと広がっている。自粛と忖度による対応だ。昨年11月、テレビ朝日が韓国の男性音楽ユニットBTS(防弾少年団)の出演予定を急遽とりやめたのもそうだろう。憲法を守ろうという訴えは政治的だとして、集会の後援を断ったり、会場の使用を認めなかったりする自治体が相次いでいるのも、その現れではないか。

 抗議の主体が組織であれば、組織的な暴力として警察に対応を求めたり、代表者と交渉して、オープンな場での討論にすることも可能かもしれないが、ネットに触発された個人の行動では、せいぜいゆるやかなつながりがあるだけなので、そうした対応ができず、対策をとるのが難しい。

 そのため、今の日本のさまざまな組織は、人々に「怒られない」「抗議されない」ことにプライオリティを置いて動いているようにさえ見える。こうした雰囲気が、今回の出来事でますます強くなり、日本の言論・表現がさらに窮屈なものになりかねない。

 こうした現象は、何かにつけ「思い」が優先され、「ホンネ」を“ぶっちゃけ”たり、自分の思いに忠実であることをよしとしてきた社会の風潮が生み出したものでもあろう。

 そういえば、「あいちトリエンナーレ2019」のテーマは「情の時代」だった。今回の出来事は、まさに「思い」優先の今の時代、すなわち「情の時代」を写し出していると言えるかもしれない。

 そんな時代を見すえて、どうしたら言論・表現の自由をこれ以上後退させずに守っていくか、考えなければならない。

 そのためにも、くどいようだが、公的機関の職員が、電話暴力から守られることは必要だと思う。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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