新型コロナウイルスの感染拡大を受け、小池百合子東京都知事が花見の宴会などの自粛を要請し、ロックダウン(都市封鎖)の可能性にまで言及しているにもかかわらず、安倍晋三首相の妻である昭恵夫人が都内で花見をしていたと報じられた。しかも、芸能人を何人も呼び、記念写真まで撮っていたという(NEWSポストセブン3月26日配信)。
昭恵夫人は、その振る舞いが森友学園をめぐる騒動の発端になったとして批判を浴びてきた。また、森友問題に関連する公文書改ざんで追い詰められて、財務省近畿財務局職員だった赤木俊夫さんが自殺したときも、赤木さんの自殺が報じられた2018年3月9日の夜に、神田うのさんや真矢ミキさんなど多くのセレブが参加した華やかなパーティーに出席していたと報じられ、一体どういう神経をしているのかと驚きの声が上がった。
良く言えば天真爛漫、悪く言えば能天気で何も考えていない女性なのだろうが、夫である安倍首相を窮地に追い込むことを繰り返しているように見える。昭恵夫人が夫の足を引っ張るようなことばかりするのは一体なぜなのか?
想像力の欠如
まず、自分の言動が国民の反感や怒りを買うことを想像できない可能性が高い。いや、そもそも想像してみようとさえしないのではないかと疑いたくなる。
このような想像力の欠如は、名門の大富豪のお坊ちゃまやお嬢さまにしばしば認められる。幼い頃から使用人にかしずかれ、何でも許容されて育つと、「こんなことを言うと相手がどう感じるか」「こんなことをすると相手がどう思うか」などと想像力を働かせる必要がないからである。
そもそも、われわれが日々の生活で想像力を働かせるのは、そうしなければ困ることがあるからだ。反感を買ったらどうしよう、怒らせたらどうしようなどと気にするからこそ、相手の反応を想像する。そして、自分が困るような反応が返ってきそうだったら、わが身を守るために言動を慎む。
しかし、昭恵夫人は、そんなことをする必要がない環境で育ったのではないか。必要がなければ、想像力は育たない。そもそも、想像力を働かせるのは結構頭とエネルギーを使う作業なので、その必要がなければ、周囲の反応など無視して自分のやりたいことをやりたいと願うのが人間という生き物である。
だから、昭恵夫人に想像力が欠如しているのは当然だ。自分の言動が国民の反感と怒りをどれほどかき立てるかも、批判をどれほど浴びるかも想像できない。また、自殺した赤木さんの遺族の気持ちをどれほど逆なでするかも想像できない。
このように想像力が欠如している人は、罪悪感も自責の念も持ち合わせていないことが多い。当然、後悔も反省もしない。周囲から責められて、一時的に後悔と反省の素振りを見せるかもしれないが、しばらくすると「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざ通り、また周囲の神経を逆なでするようなことを繰り返す。
「受動的攻撃 ( passive aggression )」
もう1つ考えられるのは、昭恵夫人が夫に対して敵意や怒りを抱いているが、それをおおっぴらに出すわけにはいかないので、あいまいな形で間接的に表現している可能性である。このように怒りを巧妙に偽装して、こそこそと表出するやり方を精神医学では「受動的攻撃 ( passive aggression )」と呼ぶ。
たとえば、夫に怒りを募らせているものの、それを直接出すと、離婚になるかもしれず、そうなると経済的に困窮する恐れのある専業主婦がいるとしよう。この専業主婦が夫の弁当に腐りかけのおかずを入れる場合、「受動的攻撃」と考えられる。
場合によっては、自身が病気になって、相手を苦しめることもある。フロイトは、メランコリー(うつ)の病理について、「彼らの敵意を直接にしめすわけにゆかないので、みずから病気になって、その病気を通じて愛する者を苦しめるのである。患者の感情障害をひきおこす相手、彼の病気がめざしている相手の者は、ふつうは患者の身辺にいる」と述べている(「悲哀とメランコリー」)。
たしかに、妻がうつになって家事をこなせなくなれば、一番困るのは夫だし、逆に夫がうつになって会社に行けなくなれば、誰よりも困るのは妻である。だから、病気という回り道を通って、相手に復讐していると言っても過言ではない。
もちろん、昭恵夫人は病気ではない。だが、一連の言動を見ていると、夫への敵意や怒りが回り道を通って出てきて、それが夫を苦しめる結果になっている印象を受ける。しかも、こうした敵意や怒りを昭恵夫人がはっきりと意識しているわけではないので、「受動的攻撃」によってこそこそと出すことを繰り返す。
もっとも、昭恵夫人本人は、夫への敵意や怒りをヴェールで覆い隠しているつもりかもしれないが、ダダ漏れにしか見えない。だからこそ「受動的攻撃」は怖いのである。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
ジークムント・フロイト「悲哀とメランコリー」(井村恒郎訳『フロイト著作集第六巻』人文書院、1970年)