秋元康の“嘘”、祝福される古川未鈴の結婚…アイドル「恋愛禁止」ルールはなぜ生まれたか
女性アイドルシーンに、もはや“悪しき伝統”として残る「恋愛禁止」のルール。「疑似恋愛ビジネス」の源泉でありながら、「人権無視」との評さえあるこの規定を、アイドル現場にいる者としてあらためて考えてみたい。
その際、2020年に発刊された3冊のアイドル関連図書を参照軸としてみようと思う。
1冊は、01,香月孝史著『乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟』(2020年4月、青弓社)。乃木坂46をメインに考察しながら、現在のアイドルシーン全体をも俯瞰した内容だ。
もう1冊は、02,太田省一著『平成アイドル水滸伝〜宮沢りえから欅坂46まで〜』(2020年2月、双葉社)。同書は、グループアイドルだけでなく、グラビアアイドルやバラエティアイドル、アナウンサーまで範囲を広げ、平成のアイドル史を振り返っている。
そして最後の1冊は、03,深井剛志・姫乃たま・西島大介著『地下アイドルの法律相談』(2020年7月、日本加除出版)。元地下アイドルの経歴を持つ姫野たまの経験談を中心に、アイドルを取り巻く状況に対し、法的問題をとっかかりに考察を深めていくといった内容である。
ジェンダーにまつわる旧来的な観念がアイドルの規範にも忍び込む
「『同性のファンが多い』ことがアイドルというジャンルでことさら言及されるのは『アイドルのファンは異性である』という認識が浸透している」(01,P123〜 第6章「アイドルシーンが映し出す旧弊」2.アイドルのコード、社会のコード)
女性アイドルに対する現状認識の窮屈さをこう指摘するのは、香月氏だ。(女性アイドルを応援する女性ファンの増加にはK-POPカルチャーの影響なども大きいと考えられるが、本稿ではそこには立ち入らない)
その上で香月氏は、同じ箇所でこう続ける。
「『恋愛禁止』という風潮そのものがいびつな抑圧をはらむコードであるが、さらにその禁忌が異性間だけに適用されることで、異性愛こそ『恋愛』のスタンダードとする価値も同時に忍ばされることになる」
「男性性・女性性にまつわる旧来的な観念による束縛も、より広く社会全体が抱えてきた慣習がアイドルシーンのうちに忍び込んだものである」
アイドル文化に見てとれる男性性・女性性に関するコードは、結局のところこの社会のうちに知らずしらず根深く潜む、旧来的なコードのコピーでしかない、というわけだ。
「恋愛未経験の清純派」に価値を見いだし続けたマスメディア
実は、そうした旧来的なコードに対して、女性アイドルたちは戦いを挑んできたのだ、と指摘するのは太田氏だ。
「『アイドルとはこういうもの』という既存の常識と格闘した(略)平成女性アイドルの歴史は、いわばその戦いの歴史でもある」(02,P11〜 女性アイドルにとって平成とはどんな時代だったのか?)
そのひとつとして太田氏は、「恋愛禁止」という文化を取り上げている。
「恋愛もまた人生の一部である。人生が喜怒哀楽の積み重ねだとすれば、恋愛がその大切な一場面を提供するものであることは間違いない。だが決してすべてではない」(02,P177〜 結びの巻~アイドルはすべてを肯定する~)
と、恋愛を人生にとってきわめて重要なものだとした上で、
「昭和の女性アイドルにとって恋愛はご法度、『アイドル=清純派』という感覚はことさら強かった。その状況は平成に入ってもしばらく続いた」
とする。そして広末涼子、安室奈美恵の系譜を紐解きつつ、
「清純派の価値はすでに実態としては下落していたのである。だから清純派を貫き通すことに意義も見出しづらくなっていた。ただ、マスメディアの言説においては『清純派』の価値はまだあった。そこにアイドルにも恋愛を許容し始めていた世間とのギャップが生まれる」(02,P178〜 結びの巻~アイドルはすべてを肯定する~)
と、アイドルに対する世間の視線と、マスメディアの取り上げ方のギャップを指摘。世間はとっくにアイドルの恋愛を許容しているのに、マスメディアは「恋愛未経験の清純派」に価値を見いだし続けた、というわけだ。
その上で太田氏は、AKB48登場以降、「恋愛禁止」というルールを認識しつつも、それを“利用”してみずからのブランド価値を上昇させていった指原莉乃や須藤凜々花らが現れたことにも言及。最終的に、恋愛禁止に関してこう結んでいる。
「人生は『恋愛禁止』と『恋愛至上主義』のどちらにも従わない。両方を超えて続いていくものだ」(02,P181〜 結びの巻~アイドルはすべてを肯定する~)
衝撃的だった、Negiccoや古川未鈴の結婚
この流れを裏付けるような動きが、2010年代のアイドルシーンに起こった。立て続けに発表され、ポジティブに受容されていった、現役アイドルの結婚である。
この時代のアイドルシーンを象徴するイベントとなった“世界最大のアイドルフェス”TOKYO IDOL FESTIVAL。2010年に開始され、そこから10年。現代のアイドルシーンのメインストリームは、このイベントと共にあったといっても過言ではない。
10年前には10代だったメンバーたちも、成人し、大人になる。当然ながら彼女たちのライフステージも進むが、それを常に定点観測する場であったのがこのイベントであり、またSNSという装置だ。
10年という時間は、その間、刻一刻と変化する自分を見せ続けてきたアイドルたち、そしてそれを享受してきたファンたちに対し、アイドルではないひとりの女性としての彼女たちの人生を受容させるには十分な長さだったのではなかろうか。
その結果、その歴史の歩みと実績を認められたアイドルたちのなかには、アイドルのまま結婚する者も出てくる。NegiccoのNao☆、Meguの2人や、でんぱ組.incの古川未鈴の結婚報告が祝福によって迎えられたのは、その象徴的な事例ではあるまいか。
秋元康曰く「恋愛禁止とは一度も言っていない」
では、こうした流れとは一線を画し、2010年代のグループアイドル史において、「恋愛禁止」の持っている価値をむしろ極限まで高めてみせたAKB48の実態はどうだったか。
劇場公演用に「恋愛禁止条例」と題したセットリストを書き下ろし、AKB48・坂道シリーズの総合プロデューサーを務め続ける秋元康氏が、過去に以下のような発言をしていることはよく知られている。
「恋愛禁止とは一度も言っていない」(2012年12月1日放送、NHK-FM『今日は一日”AKB”三昧 IN 幕張メッセ』にて)
とはいえ、実際に恋愛スキャンダルでAKB48を去った多くのメンバーがおり、丸坊主のパフォーマンスを行ってみせた峯岸みなみのような例もあることを考えれば、少なくともそのようなコンセンサスがグループ内、そしてファンとの関係において醸成されていったことは間違いない。
そしてそのことに、秋元康氏も加担していることに疑いの余地はないだろう。禁止とも言っていないが、恋愛禁止がダメだとも言わない。スタンスを明確にせず、あくまで総合プロデューサーとして、実際のマネジメントの責任からは常に遠い場所に身を置く秋元氏らしい所作といえる。
しかし繰り返しにはなるが、指原莉乃のように、恋愛スキャンダルを大きなバネとし、芸能人としてのし上がっていった者もいれば、須藤凜々花のように、選抜総選挙の真っ最中に結婚報告をするという衝撃的な行為によって「恋愛禁止条例」に堂々と立ち向かい、自身のスタンスを確立させていった者を輩出したのも事実だ。
しかしこれは秋元氏の功績ではなく、あくまで彼女たち自身が、おのれを自己プロデュースしていくなかで獲得していったものである。
恋愛は、憲法でも保障された、重要な基本的人権
ちなみに、法律的な観点から眺めてみると、「アイドルの恋愛禁止」はどう扱われるだろうか。深井剛志・姫乃たま・西島大介著『地下アイドルの法律相談』(2020年7月、日本加除出版)では、過去の判例を挙げこう解説されている。
「実際に、アイドルがファンの男性と恋愛関係になってしまい、それが事務所にバレてしまったために、事務所がアイドルとファンの男性の両方を相手に(略)損害賠償金の支払いを求めて裁判(略)裁判所は『恋愛をする自由は、人間が幸福に生きていくうえで重要な行為なので、損害賠償という形をとって恋愛を禁止することは、行き過ぎである』と判断」(P82〜 第4章 地下アイドルと禁止事項のはなし)
こうした判例を紹介した上で深井氏は、アイドルの恋愛に関してこう続ける。
「他人と恋愛をするということは、人間として豊かに生きていくために大切なものであって、幸福に生きていくために重要な行為(略)幸福を追求するために重要な行為である恋愛は、憲法でも保障された、重要な基本的人権です」(P84〜 第4章 地下アイドルと禁止事項のはなし)
つまり「恋愛禁止」をアイドルに課すことは、少なくとも法的には、文句なしにアウト、ということになるわけである。