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東芝、車谷社長“電撃解任”、CVCとの関係に疑惑…問われる藤森・社外取締役の責任

文=有森隆/ジャーナリスト
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東芝の事業所(「Wikipedia」より/Waka77)

 東芝は4月14日、車谷暢昭社長兼CEOが辞任し、後任社長兼CEOには前社長の綱川智会長が返り咲いた、と発表した。同日午後に開いたオンライン記者会見に出席したのは永山治取締役会議長(社外取締役、中外製薬名誉会長)と綱川氏。永山氏が「本人(車谷氏)から辞任の申し出があり、受理した」と説明。個人的な理由で辞任したで押し通した。

 車谷氏は取締役会を含めて全役職を辞任した。「事実上のクビ」(関係者)であることは明らかだ。車谷氏は会見を欠席した。永山取締役会議長などが英投資ファンド、CVCキャピタル・パートナーズの買収提案に至る経営姿勢を問題視し、14日の臨時取締役会で解任動議を提出するとの見方が急浮上していた。先手を打って車谷氏が辞任を表明したわけだが、異常事態であることに変わりはない。

 車谷氏が辞任に至る内幕を4月15日付毎日新聞(朝刊1面)が明らかにしている。

<関係者によると、3月ごろに取締役候補らを選定する指名委員会が車谷氏に対し、次回の定時株主総会では「再任しない」と通告。本人も受け入れ一旦は辞意を固めていた>

<指名委員会の通告は、今年に入って幹部社員を対象に実施された年1回の社内調査で、車谷氏への「不信任」が50%を超えたことを踏まえた。「(車谷氏から)頭ごなしに短期的な利益を求められた」といった声も寄せられ、(2015年に発覚した)不正会計問題の前の古い東芝に戻ったようだ」と危機感を募らせたという>

<指名委員会は4月7日に正式に委員会を開いて、車谷氏の解任を決議する予定だった。しかし、前日の6日にCVCから買収提案が届き、そこには買収後も「現体制の維持」が明記されていた。これを受けて車谷氏は態度を一変。辞意を撤回し、続投に意欲を示したという>

 東芝の幹部は言う。

「車谷氏の周辺からCVCは『ホワイトナイト』(友好的な買収者)との評価が出ていたことが、社内の混乱を一層、増幅した」

 足元が揺らいだ車谷氏が自らCVCを呼び込んだのではないのか、との疑惑だ。車谷氏にとって古巣(車谷氏はCVCの日本法人の会長を務めていたことがある)であるCVCの買収提案は実質的な助け船だった。社内の不信感はCVCからの買収提案で最高潮に達した。

策士、策に溺れる

 東芝社内は「車谷氏はCVC関係者と連絡を取り合っているのではないか」(幹部)と疑心暗鬼になった。英CVCによる2兆3000億円の買収提案は、「(車谷氏が)東芝を私物化した動き」で永山氏など他の取締役の認識が一致したということなのだろう。策士、策に溺れるとはこのことだ。だとしたら、もう1人辞表を出さなければならない人物がいる。社外取締役の藤森義明氏である。

 藤森氏といえばLIXILグループの当時のオーナーと手を結び巨額赤字に沈める無謀なM&Aを強行した張本人である。東京電力の社外取締役の時代に「東電の社長就任説」が出て、産経新聞が「社長内定」と大誤報したのは記憶に新しい。現在は東芝の社外取締役。武田薬品工業、資生堂の社外取締役でもあり、「CVCの日本での利益代理人」(M&A業界に詳しいアナリスト)との見方が株式市場で定着している。

 藤森氏は資生堂の魚谷雅彦社長とも親しく、資生堂の社外取締役に招かれた。CVCは2月、資生堂の日用品事業「TSUBAKI」を1600億円で買収した。「椿」は資生堂を象徴する花である。「TSUBAKIの売却は資生堂の心を売ったようなものだ」(関係者)との声が出たが、魚谷社長は封殺した。

 武田薬品工業の社外取締役にもC.ウェバー社長の推挙でなっている。「ここでも市販薬の武田コンシューマーヘルスケア(現アリナミン製薬)をCVCに売ろうと画策したが、うまくいかなかった」(関係者)と噂されていた。CVC日本法人社長の赤池敦史氏は藤森氏が東大在学中に所属したアメリカンフットボール部「ウォリアーズ」の後輩だという。

 車谷社長兼CEOは不可解な動きを見せた。「中2階」に追いやっていた綱川会長が4月7日付で執行役に復帰した。綱川氏は車谷氏の前社長で20年4月、執行役を外れ会長に棚上げされていた。アクティビスト(物言う株主)との対立を解消するメドが立たない車谷氏が、2017年の第三者割当増資時点で社長だった綱川氏にうるさ型の株主への対応を任せる仕事を丸投げしたと、この人事は受け止められた。というのも20年7月の定時株主総会で車谷氏の再任への賛成比率は57%だったのに対して綱川氏は約90%。「物言う株主」たちから信任された実績がある。

 だが、綱川氏の復帰はどうも“車谷解任”の布石だったようなのである。筆者は、人事が発令した時点では、これを見通すことができなかった。車谷氏のやってきたことに一貫性はない。その場その場で自分のための施策をひねり出すことに終始してきた、との辛辣な評価もある。フォア・ザ・カンパニーと対極にある行動に東芝社内から、どうして強い疑念の声が起きないのか不思議だった。組織は頭から腐るというが、上意下達の社風が強い東芝の組織の“再生”を望むのは、ないものねだりなのかもしれないと一時期、筆者は悲観したが、どっこい指名委員会で反乱が起きた。

車谷解任は用意されていた

 車谷解任に前段があったことが徐々に明らかになってきた。

 4月14日付毎日新聞(朝刊総合面)は次のように報じている。

<東芝が幹部社員を対象に実施した社内調査で、車谷氏に対する「不信任」が過半数に上ったことが13日、明らかになった>

<東芝は2016年以降、社外を除く取締役や主要子会社社長、本社の部長級社員ら計100人規模を対象に毎年1回、社長への信任を調査している。15年に発覚した不正会計問題(筆者注:粉飾決算だろうが。なんで不正会計なんだよ、と突っ込みを入れたくなった)に経営トップが関与していたことへの反省から、再発防止のため取り入れた企業風土改革の一環だ>

<関係者によると、車谷氏への「不信任」は21年1月の調査で初めて2割を超えた。2割を超えた場合は精査する規定があり、2~3月に対象をより上級の幹部に絞って再調査したところ、「不信任」が過半数に上ったという>

<この結果は社外取締役で構成する指名委員会が取締役などの候補を選定する際の参考にするが、「不信任が過半となるのは異例」(東芝幹部)という。指名委員会は6月の定時株主総会に向けて、車谷氏を会社側が提案する取締役選任議案に候補として含めるかどうかを慎重に判断するとみられる>

 取締役の選任議案を決める指名委員会は社外取締役5人で構成され、委員長は永山氏である。CVCは車谷氏が退任しても、買収提案を取り下げないとみられている。<CVCが米ベインキャピタルと連合を組み、詳細な東芝買収案を16日をメドに提出する見通し>(4月15日付日本経済新聞1面)との情報が駆けめぐる。東芝への買収提案をめぐっては、香港の投資ファンド運営会社、オアシス・マネジメントが「CVCの買収価格(1株5000円)は低すぎる」と主張。オアシスは「6200円以上が妥当」としている。

 英フィナンシャル・タイムズ(FT、電子版)は4月13日、「米投資ファンド、コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)が東芝に対して200億ドル(2兆2000億円)を上回る金額で買収提案を検討している」と報じた。「CVCキャピタル・パートナーズ(総額2兆3000億円)を上回る金額を視野に入れている」とした。カナダ系資産運用会社、ブルックフィールド・アセット・マネジメントや米アポロ・グローバル・マネジメントも買収の機会を窺っている。

 車谷氏に対する東芝幹部の強い反発は「厳しく計画達成を迫るくせに、自分では、まったく額に汗をかかない」ことに根差していた。率先垂範しないリーダーは平時でも信用されない。ましてや東芝は今、非常事態なのである。

 東芝に関する一連の報道で独自の視点を示している4月1日付毎日新聞(総合2面)は<独断が招いた「解任」劇>と“車谷解任”を総括した。

東芝をダメにした戦犯列伝:西室泰三

 東芝の社長と会長、日本証券取引所会長、日本郵政社長を歴任した西室泰三(にしむろ・たいぞう)が2017年10月14日午後8時50分、老衰のため亡くなった。81歳。通夜は19日、告別式は20日に東京都目黒区中目黒3-1-6、正覚寺実相会館で近親者のみで営まれた。喪主は長女の陶子(とうこ)。後日、お別れ会を開くとしていたが、11月30日12時~13時、千代田区内幸町1-1-1の帝国ホテル「孔雀の間」で行われた。主催は東芝。喪主は同じく長女の陶子さんが務めた。

 当時、東芝は上場廃止の瀬戸際に立たされていた。原発事業の失敗などで東芝の経営危機が表面化すると西室が、その元凶だったとの見方が噴出。東芝をダメにした“A級戦犯”の筆頭と糾弾された。

「肩書きコレクター」。西室泰三についた仇名である。名誉欲と権力欲は人一倍強かった。東芝会長になった西室は財界総理といわれる経団連の会長の座を狙った。東芝は第2代経団連会長石坂泰三、第4代会長土光敏夫を輩出したが、その後は、新日本製鐵、東京電力、トヨタ自動車の経団連御三家の時代が続いた。西室は東芝からの3人目の経団連会長になる野望を抱く。経団連会長になるには経団連の副会長か評議員会議長(当時)に就いていて、現役の社長か会長であることが必要十分条件といわれていた。東芝の歴代社長は任期4年で交代している。唯一、例外なのは西室の後任社長として2000年に就任した岡村正だけが5年社長をやった。

 2001年から経団連副会長を務めていた西室は、東芝の相談役に退けば次期経団連会長候補の資格を失う。これを嫌って、岡村を社長に留任させたから、こうなった。財界総理になりたいという思いが東芝のトップ人事を停滞させた。それでも、西室は経団連会長になれなかった。主要財界人の中に西室を推す人がいなかった。

 東芝の歴代トップは財界総理病に蝕まれていた。西田厚聰の経団連会長への執念は、西室に引けをとらなかった。2010年の“ポスト御手洗冨士夫”の経団連会長選びで、東芝会長の西田は最有力候補だった。御手洗も西田を後継に考えていた。だが、岡村正が日本商工会議所の会頭の椅子に座っていたため、西田は涙を飲んだ。2つ以上の経済団体のトップの座を1つの企業の出身者が独占しない、という不文律が財界にあるからだ。本来なら財界総理は東芝が総力を挙げて取りに行くべきものである。「いざという時には岡村が日商から身を引く」との合意がなされていてしかるべきなのだが、肝心の西室と岡村が後輩に道を譲ることはしなかった。

「東芝からの3人目の財界総理は自分だ」と思っていた西室は、西田がなったりしたらプライドに傷がつく。岡村は大の西田嫌い。「岡村が日商会頭を続投して、西田の経団連会長を潰した」(有力財界筋)と噂された。

 それでも西田は経団連会長に執念を燃やし続けた。2013年6月の首脳人事で、西田会長と佐々木則夫社長の抗争が火を噴いた。西田が佐々木を副会長に棚上げして会長に留任したのは、“ポスト米倉弘昌”の経団連会長を狙っていたからだとされている。経団連会長になるためには会長の肩書は絶対に必要だった。東芝の歴代社長の内紛の背景には「財界総理になりたい」という病理が横たわっている。それをもたらした元凶が西室だった。

 2015年7月21日、不正会計問題(=粉飾決算)で東芝の歴代3社長、田中久雄、佐々木則夫、西田厚聰が引責辞任した。日本郵政社長だった西室は、東芝の経営や首脳人事に介入した。2012年に東芝の副社長を退任していた室町正志を呼び戻し、会長、そして社長にした人事にも影響を及ぼしたと言われている。西室は日本郵政の定例会見で「本人(室町)が辞める。と言ったが、私は絶対、辞めてはダメだと頼んだ」と、その後の経営の混乱でやる気をなくした室町のネジを巻いたと述べている。

 自分がキングメーカーであることを内外に宣言したものと受け止められた。室町は西室がかつて引き上げてきた経緯がある。「東芝の未曾有の危機を表の『室町』、裏の『西室』の西室町体制で乗り切るための布石」と書いたマスコミがあった。室町体制は、実は西室の院政。社内外から西室町体制と皮肉混じりに評された。

 西室は相談役という以外、何の権限もなかったが、東芝社内では“スーパートップ”と呼ばれていた。東芝の新しい社外取締役になってもらった小林喜光・三菱ケミカルホールディングス会長(当時、経済同友会代表幹事)、池田弘一・アサヒグループホールディングス相談役、前田新造・資生堂相談役(池田、前田とも当時の肩書き)は西室の財界人脈だ。「直接、口説いて社外取締役に就任してもらった」と西室本人が語っていた。小林が多忙を理由に難色を示していた社外取締役を最終的に引き受けたのは、西室が強く懇請したためだ。小林喜光は東芝の人事を司る指名委員会の委員長をやった。

「東芝を助けてやって下さい」、猛暑だった2015年の7月上旬、西室は、小林、池田、前田のそれぞれのオフィスを訪ね、社外取締役への就任を頼み込んだ。小林にとって西室は財界の大先輩。西室の訃報に接し、小林は「日本のために最後まで活動したのは称賛すべき。希有な経営者だった」と高く評価した。池田は「アサヒビールが厳しかった時に助けてもらった。恩返ししたいので社外取締役を引き受けた」と述べた。西室が東芝の会長だった時に経営諮問委員会を作ったが池田と前田は同委員会のメンバーだった。他の社外取締役、野田晃子、古田佑紀も西室が一本釣りした。公認会計士の野田は東芝で西室と同期。西室は法務省公安審査委員会委員を務めたことがあり、法曹界にも人脈が広かった。このネットワークに引っ掛かったのが元最高裁判事で弁護士の古田だった。東芝の現在の社外取締役の陣営は、まさに西室のお手盛り人事そのものだったのであった。

 一相談役にすぎなかった西室は、東芝の闇将軍として君臨した。西室は第4代経団連会長を務めた土光敏夫が使っていた部屋に居座っていた。

 2016年に室町が社長を退任した。西室は後継社長の候補の一人だった副社長の綱川智を伴い、家電量販店を行脚(あんぎゃ)した。綱川は西室の読み通り社長になった。さながらこれは、綱川の顔見世興行に西室が付き添ったといった図だった。この綱川が、今回、“車谷スキャンダル”で社長兼CEOに復帰したのだから、まさにブラックジョークである。

 その後、東芝は半導体子会社、東芝メモリの売却問題で迷走を続け、上場廃止の瀬戸際に追い込まれた。経営者は結果責任を問われてしかるべきだ。東芝をダメにしたA級戦犯の筆頭は西室泰三である。

 日本郵政グループは株式公開という、重大な経営課題を抱えていたにもかかわらず、西室は「週3回は東芝に出社していた」(東芝幹部)。

東芝をダメにした戦犯列伝:西田厚聰

 西田厚聰は異色の経歴の持ち主だった。1943年12月29日、三重県に生まれた。「一番でなければ気が済まない」西田は猛勉強。東京大学や京都大学などのトップ校を目指したが失敗。浪人して早稲田大学第一政治経済学部に入学。卒業後、東京大学大学院法学政治学研究科修士課程に進んだ。大学院では丸山真男や福田歓一に師事しながら、西洋政治思想史を研究した。政治史の研究で来日したイラン出身の女性を見初めて学生結婚しイランに渡った。学問の世界から足を洗ったことについて、多弁な西田は口を閉ざしている。周囲では、「東大の卒業生でないため東大教授になれないことがわかったからだろう」と見ている。イランでは東京芝浦電気(現・東芝)と現地法人の合弁会社に就職した。そこで才能を見込まれ、1975年5月、東芝に入社した。時に31歳。青年期を過ぎての中途採用組だ。

 ここから社長にまで昇り詰めたのだから超異端児である。東芝に入った西田は欧米の販売会社を13年間渡り歩いた。二番になるのが大嫌いな西田は、パソコン事業を興し、世界初のノートパソコン「ダイナブック」を欧米で売りまくった。米国のノートパソコン市場で一時、シェアでトップになったこともある。お公家集団と揶揄された東芝では、西田のアクと押しの強さは際立った。それゆえ、逆に重宝され、「パソコンの西田」の異名をとった。その実績が認められ、30歳過ぎの中途採用組が名門、東芝の社長の座を射止めたのだ。

 2005年6月に社長に就任した西田のデビューは鮮烈だった。圧巻は2006年2月の米原子力プラント大手、ウエスチングハウス・エレクトリック(WH)の買収だ。WHと古くから取引関係がある三菱重工業が大本命といわれていた。東芝は想定価格をはるかに超える約6600億円の買収価格を提示し、最終コーナーで三菱重工を抜き去った。一方で、西田は東芝EMIなど優良なグループ企業を売却した。原子力発電所と半導体を経営の2本柱に掲げる「選択と集中」を進めた。半導体は国内首位で世界3位(当時)、原発は世界首位に躍り出た。この時期が西田の絶頂期だった。

 半導体と原子力、2つの事業にはそれぞれ特有のリスクがあることを、この後、思い知らされることになる。半導体は価格と需要の変動が激しい。2008年秋のリーマン・ショック後の需要の急減で価格が70パーセントも下落。東芝は半導体事業は赤字に転落。2009年3月期の連結最終利益で3435億円の巨額赤字に転落した。西田は会長に退いた。それでも辞任会見で「引責辞任」とは口が裂けても言わなかった。

 西田の退任を決めたのは、指名委員会の委員長を務めた会長の岡村正だった。指名委員会は西田の後任社長に佐々木則夫を指名した。原子力畑を歩き、原子力発電事業のエキスパートだ。WH買収の立役者である。

 東芝は委員会設置会社に移行したことで、指名委員会を牛耳る会長と、経営の執行役の社長の二重の権力構造になった。人事権を握ったほうが強い。東芝の人事抗争は、会長の指定席になった指名委員会がキングメーカーになったことから起きた。“車谷解任”といい、西田の辞任といい、指名委員会の果たす役割は大きい。

 異端児の西田の辞書には「諦める」という文字はない。2011年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故が、佐々木の権力基盤を崩した。これを機に西田は東芝のキングメーカーに躍り出た。社長に人事権はない。指名委員会の委員長である西田会長の意向で、社長や役員が決まった。

 西田が、はっきりと権力を奪還したのは2013年の社長交代時点だった。西田は会長に留任し、社長の佐々木を新設した「中二階」の副会長に追いやった。13年2月26日の社長交代の会見は異様なものだった。西田は社長の条件として「さまざまな事業部門を経験していることと、グローバルな経験を持っている」ことを挙げた。「一つの事業しかやってこなかった人が東芝全体を見られるのか」と発言した。

 原子力畑一筋で、海外経験が少ない佐々木氏を公然と批判したわけだ。「業績を回復し、成長軌道に乗せる役割は果した。ちゃんと数字を出しており、(赤字経営で引責辞任した西田に)文句を言われる筋合いはない」と佐々木は反論。社長交代会見で会長と社長が互いを批判し合う、異常事態に陥った。西田が主導する指名委員会は田中久雄を後継社長に指名した。田中は西田のパソコン事業の資材調達を担ってきた裏方である。ノートパソコンの絆で西田が田中を引き上げた。田中は東芝初の調達畑出身の社長となった。

 西田が実権を握る指名委員会は、もう1つの重要な首脳人事を決定した。常任顧問の室町正志を取締役に復帰させた。室町は12年まで東芝の副社長を務めていた。一度退任したOBが取締役に復帰するのは初めてのことだ。室町は半導体部門のエキスパートで西田が社長だった当時の右腕だった。

 14年、西田は会長を退任したが、副会長の佐々木は会長になれなかった。替わって室町が会長に就任。15年に会長と社長を兼務した。自らの人脈で固める西田の政権構想が成就した。

 しかし、すぐに暗転した。粉飾決算が発覚し、佐々木、田中久雄と共に西田も引責辞任した。この3人は派閥抗争に血道をあげ、その後、「東芝をダメにした三悪人」と呼ばれるようになった。

LIXILグループのお家騒動と藤森氏の役割

 2018年11月、住宅設備大手のLIXILグループは瀬戸欣哉社長兼最高経営責任者がCEOを辞任し、前身の会社、トステムの創業家出身の潮田洋一郎取締役が1日付で会長兼CEOに復帰した。潮田氏がCEOに復帰するのは2011年7月以来となる。瀬戸氏は2019年3月末で社長を退いた。

 瀬戸氏は2016年、当時社長兼CEOだった藤森義明氏の後継者としてLIXILグループに招かれた。藤森氏と同様、「プロ経営者」として迎えられたが、3年半でクビになった。「再び積極経営に転じたい」。10月31日の決算発表記者会見で、潮田氏は今回の社長更迭の理由をこう説明した。「(瀬戸社長の)この3年間、財務体質の立て直しが非常に重要だったのでM&A(合併・買収)の追加がなかった」とし、今後積極的にM&Aに取り組む方針を示した。一方、瀬戸氏は退任について、「(潮田氏と経営の方向性が)違ってきた」と発言。「対立するより潮田氏に(経営を)やってもらったほうがいい」と説明した。瀬戸氏の言葉の裏には、「あなたは(自分で)経営をやれるのですか」という痛烈な皮肉が込められていた。

 LIXILグループはトステム、INAX、東洋エクステリア、新日軽、サンウェーブ工業の5社が2011年に統合して誕生した。潮田洋一郎氏はトステムの創業者、潮田健次郎氏の息子。健次郎氏はトーヨーサッシという小さなアルミサッシ会社を一代で日本最大の住設機器メーカーに育てた立志伝中の人物で建材業界の「買収王」といわれた。健次郎氏は2006年に悲願だった売上高1兆円を達成。それを花道に引退したが、誰もが予想していなかった後継人事を断行した。長男の洋一郎氏を会長に据えたのだ。

 親子の葛藤もあって下馬評にものぼっていなかったから、業界はあっけにとられた。勘と馬力で日本一のサッシメーカーを築いた健次郎氏の叩き上げ人生に対するコンプレックスからだろうか。洋一郎氏は商売一筋の父親とは対極の趣味に走る。その趣味はハンパではない。歌舞音曲の古典、小唄・長唄・鳴り物(歌舞伎で用いられる鉦、太鼓、笛などの囃子)や茶道具の収集では玄人はだしと評されていた。御曹司のステータスであるモータースポーツにも凝っており、1991年から3年間、自動車レースF3000に参戦した。

 洋一郎氏の趣味人ぶりには健次郎氏はほとほと困ったようで、一時は、後継者に据えることを諦め、副社長から平取締役に降格させた。だが、血は水よりも濃いという。健次郎氏が後継者に指名したのは洋一郎氏だった。

 洋一郎氏が趣味にのめり込みやすいことを熟知していた健次郎氏は、会社の定款に「住生活以外の事業は行わない」という趣旨の異例ともいえる一文を入れた。洋一郎氏が2010年秋、プロ野球横浜ベイスターズの買収に名乗り上げたとき、プロ野球進出は「住生活以外に手を出すな」という先代の意向に反するとして古参幹部が強く反発、断念せざるを得なかった。

 自分が経営者に向いていないと自覚していた二代目の洋一郎氏は、資本と経営を分離するため、有能なプロ経営者を探した。そこで目をつけたのが、米ゼネラル・エレクトリック(GE)出身の藤森義明氏。GEではアジア人として初めて同社の経営陣の一翼を担った「プロ経営者」という触れ込みだった。典型的な内需型企業を大変身させ、海外売上高1兆円を稼ぎ出すグローバル・カンパニーに育て上げる。潮田氏が藤森氏に与えたミッションがこれであり、藤森氏は海外M&Aに打って出た。

 藤森氏はLIXILグループの社長時代には、まさにプロ経営者の仕事をしていた。藤森氏は日商岩井(現・双日)から米ゼネラル・エレクトリック(GE)に転職。46歳の若さで上席副社長となり、アジア人として初めて同社の経営陣の一翼を担った。一方、LIXILは、潮田洋一郎氏が「住生活産業におけるグローバルリーダーになる」と標榜した中期経営ビジョンを打ち出し、「2016年3月期までに連結売上高3兆円(国内2兆円、海外1兆円)、営業利益率8%」という高い目標を掲げた。海外売上高1兆円は11年3月期の実績(400億円)の25倍に相当する。「これはコミットメント(必ず達成しなければならない目標)ではなく願望だ」。アナリストたちは半ば呆れた。アルミサッシの旧トステムや、そこに合流した衛生陶器の旧INAXなどの企業群は、内需中心の典型的なドメスティック企業だったからである。

 藤森氏は海外での大型M&Aにアクセルを踏み込む一方、人材の育成にGEの手法を取り入れた。2015年4月、「変革への新たなステージ」と宣言した。4つの事業のトップには外部からスカウトした人物を据えた。事業会社、LIXILの取締役10人のうち、外国人4人を含む9人をヘッドハンティングなどによる”外人部隊”が占めた。この当時、日本企業で、これほど“外人部隊”に任せ切った事例はほとんどなかった。案の定、失敗した。藤森氏は、海外のM&Aと並行して、グローバル経営を担う人材を育成する腹づもりだったのだろうが、新体制で走り出した途端に高転びした。買収した独グローエ傘下の中国企業、ジョウユウに巨額の簿外債務が判明し、660億円の損害を被った。この失敗の責任を取らされ2016年6月の株主総会で、藤森氏は退任した。海外売り上げ1兆円構想は空中分解、グローバル人材の育成も頓挫した。

 LIXILはGEではなかったということだ。GEの手法を直輸入するだけで空回りに終わった。藤森氏が去った後、LIXILは即座に脱GE流の経営に軌道修正した。

 藤森氏はプロ経営者として失格の烙印を押された。「ドメスティック企業の経営改革は自分の任にあらず」と藤森氏は肝に銘じたのではないのか。自分の得意技は、組織が出来上がった大企業の中で、経営の効率化に手腕を発揮することだと知った。

 藤森氏は武田薬品工業の社外取締役である。武田はクリストフ・ウェバー社長が君臨している。外国人社長の受けは、相変わらず良いのかもしれない。藤森氏のクビを切った潮田氏はこんなことを言っていた。「瀬戸さんは現場を知り、泥臭いところがいい」。GE仕込みの米国流ビジネスマンの藤森氏をあてこすったような物言いで瀬戸氏をベタ褒めしたのだ。

 しかし、両者の蜜月関係はここまでだった。トップの交代と同時に発表されたLIXILの2018年4~9月期決算で最終赤字が86億円となった。イタリアの建材子会社の中国企業への売却が米国の対米外国投資委員会(CFIUS)から承認を得られなかったためだ。売却する予定だった子会社は、藤森・前社長が2011年に600億円で買収した外壁材などを手掛ける伊ペルマスティリーザ。藤森氏のグローバルM&A路線の象徴的な案件である。売上高は1600億円規模だが業績が振るわず赤字で、2017年、中国のグランドランド社への売却を発表した。ペルマ社は米国売上が4割を占める。納入先にはニューヨークのワンワールドドレードセンターなど著名な建造物が多い。

“米中貿易戦争”の最中、米当局が中国企業の買収に待ったをかけた。この売却計画が頓挫したしたため、中間期の決算は赤字に転落した。ペルマ社の売却で、2019年3月期には赤字がなくなる計画を立てていたが、売却の承認が得られなかったためペルマ社の赤字235億円が純利益を押し下げた。それだけではない。既存事業も新築着工件数の落ち込みや海外での新商品の発売遅延が響き、まさに内憂外患の状態に陥った。

(文=有森隆/ジャーナリスト、一部敬称略)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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