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東京五輪に反対する現代人は「群れ集う」ことに疲弊している?公認心理師に聞く潜在的願望

文=織田淳太郎/ノンフィクション作家
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「gettyimages」より

 各国のトップアスリートが一堂に集い、スポーツを通して世界に平和を発信する一大イベント。これが、オリンピック・パラリンピックの本来の目的であるはずだった。

 しかし、今夏に予定される東京五輪・パラリンピックに関しては、新型コロナウイルスの世界的蔓延が大きな引き金となって、開催の反対、もしくは延期すべきという声が国内外を問わず高まっている。

 当初、東京五輪・パラリンピックでは、選手も含めた大会関係者が約18万人来日すると見られていた。大会組織委員会の橋本聖子会長は、これを半分以下に減らす方針を打ち出したが、それでも東京という一都心に世界中の人が「集う」ことには変わりがない。

 しかし、私は別の観点から思う。五輪そのものより、五輪開催の是非をめぐる報道や話題ばかりが先行する状況にあって、果たして人々がスポーツの祭典を通した「集い、つながる」ことを本当に求めているのか。開催反対の声は、果たして新型コロナの蔓延だけに起因しているのか。

 何よりも「群れ、つながり合う」ことそのものを、現代人の多くは本当に心から望んでいるのか。もしかしたら、「集う」ことに多くの人が疲弊しているのではないか。そこにあるのは、新型コロナの蔓延をきっかけに表出した、「群れ、つながりたい欲求」から「個を尊重したい欲求」への潜在的願望の変化なのではないのか、と。

 この疑問に対する答えを求めて、20年近くの親交を持つ公認心理師(国家資格)の米倉一哉さんを、同氏が所長を務める「日本催眠心理研究所」(新宿区)に訪ねた。

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「群れる時代から個の時代へ」――ご自身の考えを述べてくれた公認心理師の米倉一哉先生

SNSでのつながりで孤立感が深まる理由

――今やインターネットの普及で身近な知人・友人だけでなく、見知らぬ多くの人たちともつながれるようになりました。しかし、僕個人の感覚から言えば、依然として人々は孤立しているように思えるんです。

米倉一哉さん(以下、米倉) 確かに、群れ、つながることを良しとする時代が続いてきたと思います。今やフェイスブックなどのSNSで、日本だけでなく外国の見知らぬ人たちともつながることができるようになりました。

 ただし、それは形骸化したつながりです。内面を吐露して共感してもらえることもあれば、逆にツイッターなどに自分の意見を書き込んだことで、集団的なバッシングを受けることもあります。本当はありのままを受け入れてもらいたいのに、それも叶わない。さらに、ネットで知り合った人の幸せ感が伝わってきて、それに表面的に合わせなければならない自分に孤立感を覚える人も少なくないでしょう。

 つまり、ネットによって自己開示できる場ができて、いくら「いいね」を押してもらったとしても、そこにあるのは、しょせん表面的なつながりでしかないのだと思います。私はそこに、多くの人々の孤立を感じますし、ネットの普及によって、逆にそれが色濃くなってきたように思えるんです。

――確かに、僕自身もネットでのつながりには虚しさのようなものを感じています。

米倉 たとえば、誰かに悩みや苦しみを相談されたとしますね。そんなとき、「苦しいのはあなただけじゃない。他にもっと苦しんでいる人がいるよ」などと答えるのは、私に言わせればエネルギーの出し惜しみだと思います。というのも、他人の話を一方的に聞くことはエネルギーの消耗を意味するからです。逆に、話す相手はエネルギーを得ることになります。しかし、人間関係の健全なあり方とは、エネルギーを与え、得るという相互の循環にあるのだと思いますよ。ネットでは、それがなかなかできません。

現代人を襲う閉塞感の正体

――最近発表された若者を対象にした意識調査では、このコロナ禍で50%以上が閉塞感を覚えていることが浮き彫りになりました。

米倉 誰かとつながることを良しとし、それによって自分のアイデンティティを保とうとしている人が多いからだと思います。いわば、自分のアイデンティティを確認するために人と会ったり外出したりするわけですが、それがコロナ禍で断ち切られてしまった。アイデンティティを確認する手段が奪われてしまって、まるで自分が失われてしまったような感覚に陥るのでしょう。それが閉塞感を生んでしまうのです。ネットでのつながりだけでは、閉塞感や孤独感は本当の意味で解消されることがないからですね。

 この閉塞感は、若い人だけでなく、世代を超えた多くの人に共通しているものだと思いますよ。中には閉塞感を自覚できていない人もいるので、パーセンテージはもっと多いはずです。

――逆に、閉塞感をまるで感じないという人もいます。僕の場合、コロナの恐怖を感じないと言えば嘘になりますが、コロナ前も今も心のあり方にほとんど変化はありませんし、表層意識を見る限り、少なくとも閉塞感は抱いていないように思います。

米倉 集うことを良しとする人がいる一方で、独りでいることが好き、あるいは人との関わり合いが煩わしいと感じている人は、こういう状況下でも閉塞感はあまりないと思いますよ。私は織田さんの性格をある程度把握しているつもりですが、精神的にコロナ禍の影響をあまり受けていないというのは、織田さんご自身がご自分の世界を持っているからでしょう。つまり、干渉されるのが大嫌いという織田さんの性格と無縁じゃないと思います(笑)。

“当たり前”の崩壊で個を尊重する時代へ

――干渉されることに窮屈さを感じているのは、もちろん僕だけじゃないですよね。僕は4年前に人里離れた山奥に自分の庵を構え、月の3分の1以上をそこでのんびり暮らすようにしていますが、コロナが蔓延してからというもの、田舎の山奥に引っ越したり、田舎でリモートワークをする人が急増してきました。これは、どういう心理的な状態を映し出しているのでしょうか。

米倉 先ほど、集うこと、つながることを良しとした時代が続いていたと言いましたが、それによって人々が傷つけ合ってきたという側面も否定できません。裏返せば、それは監視されている、干渉されている、という窮屈な思いを潜在的に喚起させます。織田さんの場合、その煩わしさから逃げ出したい、独りで自分と向き合いたい、という思いで山に入ったのでしょうが(※筆者注:実際、そうだった)、コロナが蔓延してからというもの、多くの人がそれぞれの「解放されたい」という潜在的な欲求に抗しきれなくなったのでしょう。

 コロナ禍によって、今や人々はライフスタイルの変更を余儀なくされるようになりました。それまで私たちは、朝の通勤ラッシュでギュウギュウ詰めの電車に押し込まれ、それをどこかで不自然に感じながらも、当たり前だと思ってきたところがあります。「仕事は会社でするもの」という固定観念も手伝って、社会的なシステムに従ってきたんですね。

 そういう価値観がコロナによって崩壊した。これまで当たり前のことだと思ってきたものが、当たり前じゃなくなったわけです。静かな田舎に移住する、会社に行かずに地方の山でリモートワークをする、といったことが多くなってきたのも、当たり前のことが当たり前じゃなくなったことの表れでしょう。

 そういう意味で、確かに今はコロナをきっかけに、時代そのものが「群れ集う」ことから「個を尊重する」方向へと移り変わるプロセスにあるのではないかと感じます。

(文=織田淳太郎/ノンフィクション作家)

後編へ続く

織田淳太郎/ノンフィクション作家

織田淳太郎/ノンフィクション作家

1957(昭和32)年北海道生まれ。ノンフィクション以外に小説の執筆も手掛ける。著書に『巨人軍に葬られた男たち』(新潮文庫)、『捕手論』『コーチ論』(光文社新書)、『ジャッジメント』(中央公論新社)など。

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