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『青天を衝け』幕閣たちの異例人事と実力主義…農民・渋沢栄一が大出世した幕末の大混乱

文=菊地浩之
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江戸時代後期の大名で、蝦夷地・福山藩の第12代藩主、松前崇広。西洋文化に詳しく英語も話せた崇広は、外様大名の子であるにもかかわらず異例の大抜擢を受け、老中にまで登りつめた。(画像はWikipediaより)

老中は外様小藩と旗本からの大抜擢

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』には、しばしば江戸幕府老中(or大老)が出てくる。阿部正弘、井伊直弼あたりは有名だが、第19回(6月20日放送)に出てきた松前崇広(まつまえ・たかひろ)や阿部正外(まさとう)となると、よほどのマニアでもなければ知らないだろう。

 松前崇広は蝦夷(えぞ/北海道)福山藩(俗称・松前藩)3万石の外様大名である。外様大名が老中に任ぜられるのは珍しく、父親が譜代大名だった例(松平定信の子・真田幸貫:ゆきつら)などがあるくらいで、純粋な外様大名の子が老中になったのは、崇広が初めてだろう。

 福山藩は北海道の最南端(現:北海道松前郡松前町)に位置し、外国船が行き交う土地柄だったので、崇広は国防の危機を感じて城を改築し、洋式砲術を奨励。そんなところが幕閣に評価されて、文久3(1863)年に寺社奉行、翌元治元年7月に海陸軍総奉行兼老中格、同年11月に老中に登用された。西洋かぶれで、江戸城登城の際にも太刀は持たず、短刀とピストルを身につけていたという。

 もうひとりの阿部正外は、その名が示す通り、阿部正弘の遠縁にあたる。阿部家は正弘の家が本家筋で、分家の大名が2つあり、そのうちのひとつに正弘の甥っ子が養子に行き、正外はその養子に当たるのだ。正外はもともと3000石の旗本に生まれ、文久元(1861)年に神奈川奉行、翌文久2年に外国奉行、文久3年に町奉行と昇進を重ねた。

 神奈川奉行在任時は、生麦事件を起こした島津久光を箱根で止めようとして老中らを慌てさせ、町奉行在任時には攘夷に反対して将軍に辞職を勧告した無骨者。その手腕が認められて元治元(1864)年3月に陸奥白河藩10万石の家督を継ぎ、その3カ月後に老中に任ぜられた。幕末には有能な旗本を大名の養子にして、幕閣に登用する事例が散見されたのである。

 松前崇広は外様小藩、阿部正外は実質的な旗本抜擢。いずれも平時ではあり得なかった老中人事であり、そこまで幕府は切羽詰まっていたのだろう。なお、『青天を衝け』第21回(7月4日放送)にちらっと登場した老中・小笠原長行(ながみち)は藩主世子(家督相続せずに老中)、若年寄の立花種恭(たねゆき)は外様小藩の出身である。

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江戸時代後期の旗本・譜代大名で、陸奥国白河藩の第7代藩主、阿部正外。松前崇広と同様、その手腕を買われ老中に任ぜられたが、その2年後には朝廷の意に反したとして解任され、隠居・蟄居を命じられた。(画像はWikipediaより)

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