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忠臣蔵と赤穂事件…「吉良上野介を処罰するなんてムリ!」という“幕府の論理”を考える

文=菊地浩之
【確認中】忠臣蔵、「吉良を処罰するなんてムリ!」という幕府の論理を考える…浅野がブチギレたワケの画像1
江戸時代末期の浮世絵師・歌川国芳による「忠臣蔵十一段目夜討之図」。歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」の十一段目、吉良邸討ち入りの場面が描かれている。(画像はWikipediaより)

江戸城・松の廊下の刃傷事件

 12月14日といえば、忠臣蔵の日である。

 元禄15年12月14日(1703年1月)、本所松坂(現在の東京都墨田区両国のあたり)の吉良邸に赤穂浪士が討ち入り、元高家肝煎(こうけきもいり)の吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか/よしひさともいう)を討ち取って、主君・浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)の仇討を果たした。

 その前年の元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で吉良が浅野によって突然斬りつけられた。

浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけたのは、なぜ3月だったのか?

 江戸幕府には高家(こうけ)という、儀式を司(つかさど)り、朝廷や伝統のある寺社などとの交渉を担当する役職があった。幕府は毎年正月に高家を京都朝廷に派遣して年始の挨拶を行い、3月頃にはその返礼として京都から勅使が江戸に下向して幕府に挨拶をする慣習があった。

 天和3(1683)年に高家衆の統括役として高家肝煎が設置され、3人が選ばれた。京都朝廷への年始挨拶は、高家の職務のなかでも重要と考えられていたらしく、それ以降は高家肝煎が担っていた。

 元禄14年の朝廷への年始挨拶は、高家肝煎・吉良義央が担当した。

 1月11日に江戸を立ち、2月29日に江戸に戻って将軍・徳川綱吉に拝謁(朝廷への年始挨拶では、出立および帰府の際に将軍に拝謁し報告することが慣例となっていた)。

 朝廷からの答礼の勅使・院使(天皇および上皇からの使者)が3月11日に江戸に到着した。京都朝廷から公家が下向してくると、江戸幕府は将軍の使者として、老中・高家肝煎が宿所を訪れて慰問した。また、高家の指導のもと、勅使を饗応接待する馳走役(ちそうやく)として、5万石くらいの大名が任命された。浅野長矩のほかには、伊予吉田藩主・伊達村豊(むらとよ)が任命されていた。

 3月12日、江戸城で勅使・院使が将軍・綱吉に拝謁する。

 3月13日、勅使・院使を饗応するための猿楽(さるがく)が催された。

 3月14日、勅使・院使が京都に帰るにあたって、将軍・綱吉に拝謁する。

 そう、京都から年始の挨拶に来ていた朝廷の使者が帰るので、幕府の役人は城内であたふたしていた。

 留守居役(るすいやく/旗本の最高位)の梶川与惣兵衛頼照(かじかわ・よそべえ・よりてる)は、将軍の正室から勅使・院使への贈答品を贈る使者を務めることになっていた。ところが、勅使・院使の拝謁の時刻が予定より早くなると聞き、江戸城松の廊下で吉良義央を呼び止め、その段取りを立ち話していた。

 すると突然、浅野長矩が吉良を背後から斬りつけてきた。吉良は眉間を斬られ、もんどり打った。梶川は浅野を組み伏せた。「殿中でござる。殿中でござる」という名シーンである。

 目付(めつけ/主に旗本の監視役)数人が事件現場に駆けつけて浅野を隔離し、それぞれ尋問したところ、浅野は「一己の宿意(かねてからのうらみ)をもって前後を忘れてしたことである。いかようにお咎めに仰せ付けられようともご返答できる筋はない」と答え、吉良は「拙者にはなんの恨みを受ける覚えもなく、浅野の乱心と見える」と述べた。

 そこで、吉良を輿に乗せて帰宅させ、浅野長矩は陸奥一関藩主・田村建顕(たけあき)の藩邸に預けられた。

 一関藩邸に大目付(主に大名の監視役)が遣わされ、浅野の即日切腹が言い渡された。

 一方、吉良邸には高家肝煎、および大目付が遣わされ、お咎めなしと伝えられた。吉良義央は3月26日に高家肝煎の辞職を申し出、隠居した。

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江戸時代末期の浮世絵師・三代歌川豊国による浮世絵「忠雄義臣録第三」。松の廊下において赤穂藩主浅野内匠頭が吉良に斬りかかる、あまりに有名な場面。

幕府による朝廷饗応の儀礼上のノウハウについて、余人をもって代えがたい人材であった吉良義央

 松の廊下の刃傷事件の原因は何か。

 おそらくその題材だけで1冊書けてしまうので、ここで深入りをするのは避けたいが、最も有力な説は、浅野長矩が高家による指導の見返りとしての謝礼をケチったから、吉良義央が儀礼上のノウハウを正しく伝授しなかったことを恨んだというものだ。

 ただ、考えてほしい。仮に社運を賭けたプロジェクトのプレゼン役に若手が選ばれたとしよう。個人的な恨みで、部長がプロジェクトに関する情報をその若手に教えないようなことがあるだろうか。それでプロジェクトが失敗したら、責任はその若手だけではなく、当然部長にも帰することになるのだ。むしろ、覚えの悪い若手を叱責したら、若手がプッツンしたと考えたほうが妥当ではないか。

 当時、吉良は余人をもって代えがたい人物だった。

 元禄14年3月当時、高家衆の構成は高家肝煎3人、奥高家8人であった。

 その内訳を見ると、経験年数は吉良義央が43年目、2番目の畠山基玄(もとはる)が14年目、以下10年選手が3人。吉良義央が三代目であるのに対して、二代目は戸田氏興(うじおき)しかおらず、家柄に伝承されるノウハウも経験も、吉良ひとりが圧倒的に飛び抜けていた。

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赤穂事件の起こる前年、元禄14(1701)年当時の高家衆11人の一覧。吉良義央は経験年数43年目の大ベテラン。“余人をもって代えがたい”人物だったことがわかる。

 なぜ、ここで何代目かが問題になるかといえば、吉良家は初代・吉良義弥(よしみつ)以来三代にわたって『吉良家日記』を残し、「吉良懐中抄」など膨大な史料が継承されていた。日記といっても「いつ訪れても京都は優美だ。一首、歌でも詠もう」なんて文学的な要素は一切ない。いつ、どこでどういう儀式をして、誰がどの順番で座って、誰に何を贈ったかがこと細かに書かれているのだ。

 儀式は先例重視の世界なので、「はて? 我が家に伝わる日記には、これこれこういうふうに書いてありましたゾ」と吉良サンに言われたら、太刀打ちできるわけがない。

 幕府・朝廷も「吉良サンが仰るんなら間違いないでしょ」と認めていた。まさに余人をもって代えがたい人材だったに違いない。

 わけのわからない田舎大名がプッツンしたくらいで、吉良義央を処罰するなんて、高家衆にとってはあり得ない事態だったに違いない。おそらく浅野の一方的な逆恨みなんだろうが、下手に証言させて、吉良側の瑕疵が出てくるとヤバい。早いところ切腹させてしまえ――というのが、実態だったのではないか。

 忠臣蔵では、浅野が悪くないことが前提になっている。それでないと、仇討の名分が立たないからだ。しかし、吉良は浅野以外にも数多く指導していたはずだ。ただひとり、浅野の謝礼だけが少なく、浅野だけがパワハラを受けていたとは考え難い。むしろ、浅野だけが個人的資質に問題があり、プッツンしてしまったと考えるほうが適切ではないか。

浅野長矩を馳走役に命じたのは、広島藩と仙台藩“和解”のための裏プロジェクトだった?

 実は、浅野長矩を馳走役に命じたのには、知られざる裏プロジェクトがあったという憶測がある。

 浅野長矩は広島藩・浅野家の分家。浅野と共に馳走役に命じられた伊達村豊は、仙台藩・伊達家の分家筋に当たる。

 実は伊達家の藩祖・伊達政宗は、浅野家の藩祖・浅野長政と相性が悪く、絶交を言い渡して以来、広島藩と仙台藩は「不通(ふつう/儀礼的な挨拶すらしない)」大名といわれていた。

 そこで、広島藩と仙台藩の分家同士に一緒の仕事をさせて、そこから広島藩と仙台藩の仲を取り持とうという思惑があったとか。ちなみに、浅野長矩が切腹をする現場となった田村家も、伊達政宗の正室の実家で、江戸時代に入ると伊達家から代々養子を迎え、実質的には仙台藩の支藩のようになっていた。まぁ、そんなんじゃあ、うまくいかなかったんだね。

 そんなこんなで、浅野家と伊達家が和解したのは平成に入ってから。ほぼ400年の時が経っていた。浅野家当主は和解に際し「まさかお会いしていただけるとは思わなかった」と言ったとか、言わなかったとか。さすが、大名家ともなるとケンカのスケールも桁違いなのであった。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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