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『麒麟がくる』明智光秀の旧主・土岐頼芸の曽孫は、忠臣蔵で「殿中でござる」と叫ぶアノ男

文=菊地浩之
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愛知県名古屋市の桶狭間古戦場公園内にある今川義元の像。(写真:アフロ)

桶狭間で討ち死にした今川義元の子孫はどうなった?

 新型コロナウィルスの感染拡大により中断していたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の放送が、8月30日より再開される。前回放送分である6月7日放送の第21回は、「決戦!桶狭間」、つまり1560(永禄3)年に起きた桶狭間の合戦だった。

 その桶狭間の合戦で今川義元(『麒麟がくる』では片岡愛之助)が討ち死にした後、今川家はどうなったのか。義元が討ち死にして、今川家が滅んだと誤解されている方も少なからずいらっしゃるようだが、実態はそうではない。

 実は義元は、尾張侵攻に当たって家督を子の氏真に継がせていたのだ。氏真がしっかりした武将であれば、「隠居したオヤジが戦に出て討ち死にした」で終わったんだろうが、周知のごとく、家督継承は見かけの上だけで、実権は義元が握っていた。なので、義元が討ち死にすると、今川家は滅んではいないものの、領国経営が瓦解していく。

 まず、人質として駿府に留め置かれていた松平元康(のちの徳川家康。以下、徳川家康で表記を統一/風間俊介)は、尾張から駿府に帰陣せず、生まれ故郷の岡崎城に戻って今川家の城代を追い出し、そのまま居座ってしまう。家康は織田信長(染谷将太)と小競り合いをしつつ、その陰で信長と同盟を結び、今川家から独立。三河国内を統一すると、あろうことか遠江に侵攻し始める。

 これを見て焦ったのが、武田信玄だ(もちろん今川家も焦ったのだろうが)。

 信玄にとっても、今川領国は魅力的である。一目置いていた義元のアニキ(信玄の姉が義元夫人で、氏真の母親)がいたから手出しできなかったが、凡庸な甥の氏真なら赤子の手をひねるより簡単だろう。ところが、青二才の家康の野郎が、オレでも遠慮しているのに、遠江をかすめ取ろうとはどういう魂胆だ――と思ったに違いない。

 信玄は、今川家との同盟を破棄して駿河に侵攻。事前に今川重臣に内応を打診していたとも伝えられる。あっという間に駿河は占拠され、氏真はほうほうのていで遠江掛川城に逃げ延びた。しかし、遠江は西から家康が侵攻してきているので、掛川城は半年も経たぬうちに家康に攻め落とされてしまう。

 氏真は夫人の実家・小田原北条家に逃れたが、義父・北条氏康が死去すると、義兄・北条氏政は武田家との連携を強めて、氏真は居づらくなってしまう。結局、家康の元に転がり込んだ。

 家康は氏真を対武田軍の最前線にある遠江の城主に抜擢した。まぁ、凡将なので、軍事指揮面では期待できないが、それは有能な副将をつけりゃあいい。遠江では今川ブランドが絶対的なので、地元民衆が武田軍相手に一揆を起こしたり、抵抗して有利になると踏んだのだ。

 実際、ある程度の効果はあったようだが、やっぱり部将としては使い物にならないということになって解任される。部将として、どこそこ城にいたわけではないのでその後の足取りは不明なのだが、京都にいたらしい。家康から近江の野洲(やす)郡に500石を与えられていたので食うには困らなかったし、氏真は風流・文化では一流の人材だったようなので、お公家サンには人気があっただろう。

徳川家光の意向で「日光東照宮」昇格を成し遂げ、今川家は家禄を倍増さる

 氏真の子孫は家康に仕えて幕臣となった。長男・今川範以(のりもち)は早死にしたので、嫡孫・今川直房(なおふさ)が家督を継ぎ、高家として活躍した。赤穂浪士に討たれた吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしなか)で有名な、あの高家である。

 高家ではその吉良家がブイブイ言わせていたのだが、吉良家は今川家の本家筋に当たる上、この頃、両家は緊密な婚姻関係を重ねていた。義央の祖父は吉良義弥(よしみつ)というが、義弥の母は直房の叔母、直房の母は義弥の叔母、義弥の妻は直房の妹。つまり、直房と義弥は従兄弟であり、義兄弟なのだ。義弥は直房を引き立ててくれ、直房はそれに応えた。

 実は日光東照宮は当初「東照宮」ではなく、一段低い「東照社」だった。家康の孫・徳川家光は「家康の夢を見たら病気が治った」というくらい祖父を信奉していたので、社から宮に昇格させたいと考え、その命を受けて朝廷工作に走ったのが、今川直房なのだ。

 直房は朝廷と交渉して見事ミッションを成し遂げ、家禄が1000石に倍増。江戸時代における「今川家中興の祖」と呼ばれた。

 子孫は高家として遇されたのだが、幕末の当主・今川範叙(のりのぶ)が明治20年に跡継ぎがないまま死去したため、今川家は本当に滅亡することになった。

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今川家の家系図。吉良家は今川家の本家筋に当たり、両家は緊密な婚姻関係を重ねていた。

明智光秀の旧主・土岐頼芸は、美濃追放後どうなった?

 さて、『麒麟がくる』の主人公・明智光秀(長谷川博己)の旧主・美濃守護(みのしゅご)の土岐(とき)家も、のちに江戸幕府の高家になっている。美濃守護・土岐頼芸(よりのり[よりなり、よりあき]ともいう:『麒麟がくる』では尾美としのり)が斎藤道三(本木雅弘)によって美濃から追放されてしまうところまでは、『麒麟がくる』でも放映された。

 頼芸は、妻の義甥にあたる朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)を頼って越前(福井県)に逃げ落ちた。ところが、優柔不断で厄介ごとを嫌う義景は、頼芸の亡命を許さず、頼芸は上総国(千葉県)に逃げのびる。

 斎藤家が織田信長(染谷将太)によって滅ぼされると、信長に転仕した稲葉一鉄(いなば・いってつ/村田雄浩)は、旧主・頼芸を美濃に迎えた。本能寺の変の半年後、頼芸は82歳の天寿をまっとうしたという。

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名門・土岐家の家系図。系図中央に見える土岐頼芸の曽孫・頼照が、「殿中でござる!」の梶川頼照である。

明智光秀の旧主の曽孫は、あの忠臣蔵の関係者?

 頼芸の嫡子・土岐頼次(よりつぐ)は、松永久秀(吉田鋼太郎)、豊臣秀吉(佐々木蔵之介)を経て、徳川家康(風間俊介)に仕え、江戸の世になって旗本となった。頼次の子・土岐頼勝(よりかつ)は1000石を領し、高家(こうけ)に列した。

 つまりは、名門の家柄なので高級旗本として遇してあげるから、儀式・礼典でがんばってください、ということだったんだろう(斬りつけられない程度にね)。ところが、頼勝の曽孫・土岐頼泰(よりやす)が、こともあろうに酔っ払って通行人を傷つけた(斬りつけちまった?)ので改易されてしまう。高家の座は、一族の土岐頼元(よりもと)の子孫が引き継いだ。

 ちなみに、吉良義央を斬りつけた浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)を、「殿中でござる。殿中でござる」と叫んで組み伏せた梶川与惣兵衛頼照(かじかわ・よそべえ・よりてる)は、土岐頼芸の曽孫なのだ。

 頼勝の弟・土岐頼泰の娘が梶川家に嫁いでいたのだが、跡継ぎに恵まれなかったので、娘の弟の頼照が養子に行ったのだ。よくよく考えてみると、頼照の頼の字は、土岐頼芸をはじめとする土岐家が名前によく使う字(通字という)だったりする。

 ちなみに、梶川家は織田家の支流と称し、桶狭間の合戦では中島砦に立て籠もって恩賞をもらっている。その桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にした後……。ん。デジャブか?(最初に戻る)

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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