日本人の名前に多い漢字2文字訓読み
古代日本の人名は、藤原不比等(ふひと)、和気清麻呂(わけのきよまろ)など、漢字3文字以上の名前が散見されるが、平安時代以降は、菅原道真、藤原道長、平清盛、源頼朝、北条時宗、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康……と漢字2文字で訓読みの名前が圧倒的に多い。
なぜか?
漢字2文字の名前をはやらせたのは、第52代・嵯峨天皇(実名・神野。当時は乳母の姓をそのまま名前にしていた)。平安京に遷都した桓武天皇(実名は山部)の子どもである。
嵯峨天皇といえば、平安時代の三筆(さんぴつ。書がうまい人)のひとりくらいしか情報がないと思うのだが――この御仁はとにかく子だくさんだった。50人くらいいたらしい。子どもをすべて国家財政で養ってしまっては、財政が破綻する。そう考えた嵯峨天皇は、子どもを1軍と2軍とに分けて、2軍は臣下とした。
つまり、2軍の子どもに姓を与えて皇籍から離脱させ、ほかの公家と同様に扱ったのだ。そのとき、1軍の親王には漢字2文字の、2軍の子どもたちには漢字1文字の名をつけた。こののち、公家社会で漢字2文字の名前が大流行して今に至っているのだ。
ではなぜ、親王の名前を漢字2文字にしたのか?
嵯峨天皇は大変な教養人で、漢籍に通じていた。つまりは中国かぶれである。中国人の名前は漢字2文字が多いので、それをマネしたということだ。
ルール1:親子・兄弟で同じ漢字を使う
嵯峨天皇は1軍の親王に「〇良」という名前を授けた。これがもとになったのかは定かではないが、平安初期は兄弟で同じ字を共有するというケースが多かった。
清和源氏の例でいうと、
・源経基(つねもと)の子は、満仲(みつなか)・満政(みつまさ)・満季(みつすえ)……
・源満仲の子は、頼光(よりみつ)・頼親(よりちか)・頼信(よりのぶ)……
・源頼信の子は、頼義(よりよし)・頼清(よりきよ)・頼季(よりすえ)……
・源頼義の子は、義家(よしいえ)・義綱(よしつな)・義光(よしみつ)
満仲の兄弟は「満」の字、頼信の兄弟とその子は「頼」の字、それ以降は「義」の字が多い。初めは兄弟で同じ字を使っていたところが、途中からそれが親子にも適用されていく。一族で、名前に同じ字を使うことを、通字(とおりじ)という。
清和源氏の例に見るように、最初は「頼」を通字にしていたのに、途中で「義」が通字に変わってしまう。もしくは本家と分家で通字が違うことはよくある。例えば、武田信玄(本名・晴信)は清和源氏で、源義光の子孫だが、代々「信」を使っている。通字を2文字の上にするか、下にするかは各々の家系によって違う。武田家はだいたい「信〇」という風に通字を上に用いる場合が多い。
ルール2:目上の人から1字をもらう
武田晴信が「信」の字を下にしているのは理由があって、室町幕府の将軍・足利義晴から一字をいただいたためだ。
日本人のファーストネームを諱(いみな)というので、その片方を与えることを「偏諱(へんき)を与える」という。元服(げんぷく:成人式)の儀式で、親しい人や有力者に頼んで仮親(儀式の上での親)になってもらう。
平安後期になると、仮親から1字をもらって諱を決める風習ができた。武田晴信は元服の際に、足利義晴から1字をもらって「晴信」と名乗った。将軍から一字をもらうなんてことは、よほど高貴な家柄に生まれなければ、実現しない。つまり、大変名誉なことだ。武田家では初である。
まぁ、当時、足利将軍家は政治的にも経済的にも大変困っていて、お金をいただいたら名前の1字くらい差し上げていたんですが(まるで通信販売みたく、地方のお大名でも書面でお送りしております)。足利将軍家の通字は、将軍になる前の鎌倉時代は「氏」で、室町時代となってからは「義」である。大金をいただければ、「晴」ではなく、「義」のほうを差し上げます。だから、武田晴信の長男は「義信」なのだ。
ちなみに、もらった字は上につける。目上の方から1字もらうんだから、当然だ(だから、「信晴」ではなく、「晴信」なのだ)。
偏諱を与えられた事例で有名なのは、足利尊氏である。
鎌倉幕府の討幕で、尊氏は大活躍したがゆえに警戒され、建武の新政では要職に就けてもらえなかった。そこで、前代未聞。後醍醐天皇(本名・尊治[たかはる])は尊氏に1字を与えた。
「これで我慢してくれんかのう」という心境だったに違いない。ちなみに、尊氏は旧名を「高氏」(たかうじ)といって、鎌倉幕府執権・北条高時から1字もらった名前だった。
ルール3:目上の方が使っている漢字は避ける
将軍家から一字をもらうことが名誉なことになってくると、当然、その字は使っちゃいけないということになる。室町幕府の頃はそんなにキツキツじゃなかったのだが、江戸時代になると、徳川将軍家の通字である「家」という字を使わなくなる。歴代将軍が名前に使う字も遠慮せざるを得なくなる。
江戸時代はそうした風潮が徹底していて、例えば添付した画像は江戸後期に出版された書籍の一部なのだが、「兼」の字が欠画している(=字の一部が欠けている)。これは、当時の光格天皇の名前が「兼仁(かねひと)」だったから、遠慮したのだ。
幕末と明治では違うじゃないか!
幕末や明治維新では、漢字2文字で訓読みの名前じゃない偉人も少なくない。
たとえば、新選組や土佐藩士の方々は漢字2文字で訓読みの名前ではないが、巷間伝わっている名前はミドルネームで、ファーストネームは別にあると思ったほうがよい。
・近藤 勇 昌宜(まさよし)
・土方 歳三 義豊(よしとよ)
・沖田 総司 房良(かねよし)
・坂本 龍馬 直柔(なおなり)
・板垣 退助 正形(まさかた)
・後藤 象二郎 元曄(もとはる)
明治維新後、明治新政府はミドルネームを廃止して、下の名前はそれまでのミドルネームかファーストネームのいずれかを使うように指示した。板垣退助や後藤象二郎はミドルネームを取ったのだが、薩長藩士の多くはファーストネームのほうを取った。
ファーストネームを「諱」(いみな)というのは「忌み名」から来たことばで、呼んではいけない名前という意味である。古代中国の思想で、ファーストネームは呪術の対象となり、呼んではいけないという風習が日本に根付いていた。
だから、西郷吉之助隆永(たかなが)が代理で戸籍登録を頼むと、その知人は「吉之助どんって、なんて名前だったんだっけ?」と考え、たしか「隆盛」だったはずと、吉之助の父の名前で登録した。西郷隆盛は笑って許したという(今なら、字画がどうのこうのとかいって、大問題になりそうだなぁ)。吉之助の弟・隆道(りゅうどう)は、薩摩なまりで戸籍係が聞き間違え、「従道」(じゅうどう)にされてしまった。
現代人は名前にことさらこだわり、旧字体で書かないと怒られる場合があるが、もっと鷹揚に構えてもいいのではないか。
実は「源氏」を創設したのも嵯峨天皇だった
嵯峨天皇は、2軍の子どもたちに姓を与えるとき、「源」という姓を選んだ。なんでも「ルーツが一緒だから源姓を与える」という中国の故事があったようなのだ。
これ以後、親王やその子が姓を賜って皇籍を離脱し、臣下となる際、源姓を賜ることが多くなった。その親(もしくは祖父)の名をとって、嵯峨源氏とか清和源氏とかいうのだ。「源頼朝は清和源氏のなんとかで~」というのは、頼朝が清和天皇の子孫の源氏だという意味だ。
嵯峨天皇の存在は意外に知られていないが、実は日本の文化に大きな影響を与えた人物なのである。
(文=菊地浩之)