精神科医が語る、江藤新平とADHD…佐賀の乱で大久保利通に処刑された男の隠された特性
明治維新の立役者のひとり、江藤新平(1834〜1874年)の人生をたどっていくと、彼の生真面目さ、一途さに身の引きしまる思いを感じるとともに、彼の悲劇はそうした自身の特性と強く関連しているように感じられる。新平は刻苦勉励さと直情的な行動によって新政府の重鎮にまで上りつめたが、大久保利通らによる政治的な駆け引きのなかで敗者となり、反逆者としての最期を遂げるに至った。
以下の記述は、杉谷昭『江藤新平』(吉川弘文館)、池松美澄『朝焼けの三瀬街道』(佐賀新聞社)などの資料に基づくものである。
江藤は佐賀藩の藩士で、天保5(1834)年2月9日の生まれである。彼は「維新の十傑」「佐賀の七賢人」にも挙げられる明治維新の中心人物のひとりで、明治政府の初代司法卿(現在の法務大臣)を務め、法治国家としての基礎を定めた人物である。
江藤の父親は身分の低い武士で、職務怠慢とされて職を解かれたこともあり、新平たちの生活は窮乏していた。父親は、藩の職務よりも義太夫などの芸事や道楽に入れこむ人だった。江藤家の家計は母が支えていて、父が職を失った時期には、母が寺子屋の教壇に立っていた。
このような家庭のなかで、新平は母の教えにしたがって勉強だけに熱中した。いつも「粗服」で、自分のなりふりにかまうことはなかった。往来を書物を手にして読みながら通り過ぎるので、「狂人」扱いされたこともあった。
嘉永元(1848)年、新平は佐賀藩の藩校、弘道館へ入学した。成績は優秀だった。その後は藩校の教師をしていた枝吉神陽(えだよし・しんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響を受けた。嘉永3(1850)年には枝吉神陽が結成した「義祭同盟」に、大隈重信、副島種臣(そえじま・たねおみ)らとともに参加をしている。
外国船がひんぱんに来航する当時の政治状況に影響され、安政3(1856)年には開国の必要性を説いた『図海策』を執筆した。その後新平は、佐賀藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めている。
桂小五郎や姉小路公知らと交流し、尊王思想へ傾いた江藤新平
文久2(1862)年、新平は脱藩して京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知(あねがこうじ・きんとも)らと交友を持った。この新平の行動は、佐賀藩の官吏として藩政改革に取り組んできたものの思うように事態が進まないことに焦りを覚えたことが原因であったようである。この時点で新平が明確に「倒幕」に傾いていたわけではないが、「尊王」を主なスローガンとして中央に活路を求め、改革を企てようとしたのだった。
新平は京都で公家や各藩の志士と接触し、佐賀藩の同志とともに、藩主・鍋島直正(なべしま・なおまさ)を動かして改革の主導権を握ることを画策していたが、この試みは不発に終わった。
やがて帰郷した新平は、通常は死罪となるところ、彼の能力を高く評価した藩主の裁量によって、永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されている。蟄居中の生活は苦しかったが、政治活動は継続していた。当時の心境を新平は次のように述べている。
山中雑詠
箪中に食なく、嚢に銭なし
妻は病み、児は哀しむ梅雨の天
唯、腰刀を舞はしめ、義勇を鼓す
満山の草木、凄然たり
勝海舟は江藤新平をこう評した、「江藤は驚いた才物だよ。ビリビリして居って、実に危ない」
1867年、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜によって大政奉還が行われ、江戸幕府が滅ぶとともに、新平は蟄居を解かれて郡目付として復帰した。1868年1月、王政復古の大号令が唱えられて明治の新政府が誕生し、佐賀藩からは新平が副島種臣とともに京都に派遣された。
同年始まった戊辰戦争においては、新平は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八(おがさわら・ただはち)とともに江戸に向かった。新平は岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきことを献言し、旧幕臣らを中心とする彰義隊との戦いの収拾に当たった。
戊辰戦争の後、新平は新政府が設置した江戸鎮台において、6人の判事の1人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当した。7月には江戸が東京都改称され、その後明治天皇が行幸した。
その後新平は一時的に佐賀に帰郷して着座(準家老)として藩政改革にあたっていたが、再び中央に呼び戻された。そこでは、太政官中弁、制度取調専務の役職に任命され、国家機構の整備に従事した。新平の目標は、近代的な中央集権国家の創設だった。
さらに明治4年には文部大輔(現在の次官に相当)、左院副議長などを務め、新しい政治、行政の確立に力を注いでいる。さらに司法卿(現在の法務大臣)に就任し、日本の司法制度、警察制度の創設、確立に務めた。
しかし当時の政治状況は薩摩、長州藩出身者を中心とした藩閥政治が主流であり、「鋭敏な熱情家」である新平の理想主義的な政策とぶつかることも珍しくなかったようである。冒頭に挙げた『江藤新平』の杉谷昭は、新平を次のように評している。
「西郷のような神経の太さも、大隈や大久保のような狡猾さも持ち合わせなかった。頭のするどい、議論好きな、テーブルにつき常に洋食を嗜んでいた青年政治家であった」
さらに同時代の証言を加えておく。
佐賀藩士であり新平と行動を共にしていた副島種臣は、新平を「気魄勃勃奇傑之士」として、気骨はあるが風変わりな豪傑と評している。また元幕臣で江戸城の無血開城をもたらした勝海舟は、「江藤は驚いた才物だよ。ビリビリして居って、実に危ない」と述べている。
このような評価は、みずから確立した司法制度を新平が厳格に運用し、明治5年に起きた「山城屋事件」などにおいて長州や薩摩出身の役人たちの不正を厳しく処罰したことにも起因しているようである。
江藤新平を葬り去りたい大久保利通によって、「佐賀の乱」へと追い込まれ処刑された
いわゆる「明治6年の政変」で、新平は大久保らと対立した西郷隆盛とともに、中央政府の役職を辞し野に下った。この政変は、「征韓論」に関する対立がきっかけとなっていると説明されることが多いが、実際のところは西郷にも朝鮮に出兵する意志はなく、大久保らによる反対派の粛清という側面が大きいようである。特に大久保の江藤新平に対する敵愾心は強烈なものがあった。
明治7年、新平は東京を離れて佐賀に向かった。これは不平士族をなだめることが目的だった。しかし彼は朝鮮半島へ進出しその先鋒を務めると主張していた「征韓党」の党首に祭り上げられ、望んだわけではない戦乱の首謀者とされてしまった。
新平が東京から佐賀に渡ったことを確認すると、大久保は周囲の「官軍」を組織し、みずから佐賀に侵攻した。そして官軍によってなかば意図的に戦乱は開始され、やがてそれは「佐賀の乱」と呼ばれる大規模な戦いにまで拡大してしまった。
この戦乱において、官軍の軍備は圧倒的だった。反乱軍は短期の戦闘で瓦解し、新平も逃亡をはかるがまもなく捕縛される。そして正式な裁判が行われることなく、処刑されたのであった。大久保は江藤の処刑を急ぎ、処刑を行わないようにという岩倉具視からの手紙も無視した。
池松美澄は、佐賀の乱について次のようにまとめている。
「大久保のもとへ『江藤捕縛』の報が届いたのは四月二日であった。彼は、『これ以上の喜びはない』と言って岩村らと盃を重ねた。
大久保のこのような手放しの喜びようからしても、彼はただ単に佐賀士族の暴発を鎮圧するために兵を出したのではなく、江藤を生かしておいたら能力的に劣る自分の立場が危なくなると知っていたので、江藤という政敵を葬るために仕組んだということがわかるのである」(池松美澄『朝焼けの三瀬街道』佐賀新聞社)
江藤新平はADHD(注意欠如多動性障害)の特性を持っていたのではないか
江藤新平の生涯をこのようにたどってみると、幕府側の人物であるが、新平には本連載で以前取り上げた小栗上野介(『精神科医が分析する小栗上野介=ADHD説…有能にして傲慢、生涯に70回余の降格・罷免』)との共通点が多いことに気が付く。
江藤も小栗も下級武士の出身であったがすぐれた頭脳を持っていて、幕末維新の混乱期に、江藤は新政府の、小栗は幕府の重臣として活躍をした。しかし、おそらく2人とも、「腹芸」や「忖度」ができない直情型の人物であったようで、周囲からうとまれて悲惨な最期を遂げたのだった。
前述の本連載記事において筆者は小栗について、ADHD(注意欠如多動性障害)の特性があったのではないかと述べた。確定的な証拠はないが、新平も同様の特性を持っていたのかもしれない。
新平とも、政敵であった大久保とも身近に接していた大隈重信は、新平について次のように述べている。
「江藤君が最後の失敗を惹き起こしたのは、決して偶然ではない。無論、直接の原因は征韓論であるかもしれないが、そこまでに至るの勢いは、何であるかと言えば、江藤君が国家の組織を、根本的に、最も世界の文明に進んだところのものを採用して改革せんとする、それに対する衝突が、遂に、憤怒の極み、過失を招いたのではないかと、我が輩は、こう疑っている」(江藤冬雄『南白江藤新平実伝』佐賀新聞社)。
(文=岩波 明/精神科医)