精神科医が分析する徳川家光の“うつ病”…弟・忠長を殺害後、まともに執務もできず苦悩
いうまでもなく徳川家光は、江戸幕府の第3代将軍である。幕府の開祖である祖父の家康、「生類憐みの令」で知られる5代の綱吉、中興の祖といわれる8代の吉宗ほどの知名度はないが、中学、高校の教科書には必ず記載されている著名人だ。
一般に家光の時代は、大名の参勤交代の確立、島原の乱の鎮圧などによって、その後200年以上にわたって継続した幕藩体制が確立した時代と考えられている。
家光は、第2代将軍である徳川秀忠の次男として、1604年に江戸城にて生誕した。秀忠の長男は夭逝しているため、実質的には長男であった。家光の母は、織田信長の妹、お市の方の次女である江である。従って家光は、徳川家だけでなく、織田家、浅井家の血筋を受け継いでいたことになる。
1600年に起きた関ヶ原の戦いは家康が率いる東軍の勝利で終わり、家光の生きた時代は、まさに徳川家の天下が確立しつつある時期であった。
その後の歴史をたどると、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、幕府の体制は盤石のものとなる。1623年には、退位した父・秀忠に代わって、家光は第3代の将軍に就任した。
このように一見したところ、家光は「生まれながらの将軍」であり、その人生は順風満帆であったかのように思える。しかし現実は必ずしもそうとはいえなかったようで、その生涯には深い孤独の影がつきまとっていた。
3代・徳川家光は、実は秀忠の子ではなく、家康とお福の間の子ども?
不思議なことに、徳川宗家の跡取りであった家光について、出生時や幼少時の確かな情報はほとんど存在していない。さらに成人してからも、その人柄を示すようなエピソードも少ない。
幼少時の家光は病弱で吃音があり、容姿も美麗とはいえなかったらしい。家光には、2歳年下の弟・国松(後の徳川忠長)がいた。
少年時代になっても家光は口数が少なく、人に言葉をかけることもなく、心の内をうかがいしれないことが多かったという(藤井譲治『徳川家光』吉川弘文館)。
家光と比べ弟の国松は子ども時代から才気煥発で、秀忠、江らは国松を偏愛し、家光は遠ざけられることが多かった。周囲からは、秀忠の後継は、国松にという声も上がっていたという。
家光が廃嫡される恐れを感じた乳母のお福(春日局)は、駿府までおもむいて大御所である家康に実情を訴え、家康の裁断で家光の世継ぎが決定したという逸話が伝えられている。この話には尾ひれがついていて、家光は秀忠の子ではなく、家康とお福の間の子どもだという噂話さえ伝えられている。
実際、最近の学術的な研究においても、家光は母とされる江の実子ではないという仮説が提唱されているという。ただし実母については特定されていない。
江戸時代の出来事の公式文書である「徳川実紀」においては、徳川家康が後継者を決めたシーンが記載されている。大御所である家康が、隠居先としている駿河から上京し、2人の孫と対面するという場面である。
家康は家光を跡取りとして上座に座らせ、忠長は臣下扱いして、菓子を与える際にも、家光を優先させたという。
この後継者争いについて実際どの程度のことがあったのか、確実な資料は存在していないようで、後世の作り話も多数含まれているようだ。しかし、その後の兄弟の確執を見れば、家光と忠長の覇権争いが存在したことは確かであり、そのせいもあってさまざまな逸話が“創作”されたのであろう。
確かに、家光と忠長の母親が違っていれば、この争いには合点がいく面がある。ただ、家光が家康の実子というのは、にわかには信じられない。というのは、家康の末子であり、水戸藩の初代藩主となった徳川頼房の出生は1603年である。仮に家光が家康の実子であったとしても、それを隠す理由は見当たらないからである。
徳川忠長の“奇行”は、精神疾患のなせるわざなのか
家光の弟である徳川忠長は、1606年の生まれである。元服後の1624年に駿河国と遠江国の一部の領主となり、「駿河大納言」と呼ばれるようになった。
しかし忠長は、自分の処遇についての不満が強く、父である秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にしてほしい」という嘆願書を送ってあきれられたという。
母の江が死去した頃より、忠長は過度な飲酒に浸ることが多く、また明確な理由もなく部下や一般の住民などを手打ちにして殺してしまうことが何度か見られた。
1626年には、家光の上洛が決まった際に大井川に船橋を掛けたが、無許可で施工したことが問題視された。1631年には、鷹狩りに出かけた際に雪が降り、薪が雪で濡れていて火が付けられなかったため癇癪を起こして、小姓を手打ちにしてしまう。
この一件が幕府の知るところとなり、これまでの乱行もあって甲府への蟄居を命じられた。さらに秀忠の死後は領国すべてを没収され、高崎へ逼塞の処分が下された。そして1634年1月、忠長は高崎の大信寺において自刃し、28歳の短い生涯を終えた。
当時の忠長には、なんらかの精神疾患が見られるようにも思える。酒に酔って家臣の子を殺害したり、殺害した少女を犬に食わせたりという奇行も見られた。城下における辻斬りも報告されている。
ただ歴史を振り返れば、この家光と忠長の争いだけではなく、権力者の一家における兄弟の争いというのは珍しいものではない。
源頼朝は弟・義経を追放し、死に至らしめた。室町幕府の創始者である足利尊氏も、重要な協力者であり政権で重要な役割を演じていた弟・直義を毒殺したとの声が根強い。
家光の場合と似ているケースが、織田信長である。信長には年齢の近い弟・信行がいた。実母は信之を寵愛し、家督の継承を望んだ信行は反乱を起こすが鎮圧された。一度は弟を許した信長であったが、再度信行が謀略を企てていることを知り、先手をとって弟を謀殺したのだった。
弟・忠長“殺害”後、家光は、うつ病におちいった
忠長の「自害」は幕臣の幹部による決定事項であったと考えられるが、将軍である家光本人の承諾を得たことは明らかである。
実弟の殺害を了承した家光は、その後深刻な精神状態に陥ることとなった。忠長の死後しばらくして、家光は政務を執り行うことができなくなり、江戸城の表舞台に出ることもまれになった。
1637年の記録によれば、不眠、食欲不振、発熱に加えて無気力な精神状態(「御心重い」)が持続し、家光は江戸城の奥で養生をする生活が続いた。この時期、さかんに灸による治療が行われたが、効果は見られなかった。このような家光の状態は、今日の目でみれば「うつ病」と考えて間違いはないだろう。
家光が「うつ病」から回復するには、2年あまりの歳月が必要であった。当時は睡眠薬も抗うつ薬もない時代であり、回復に時間がかかったことはやむを得なかった。この間、家光は諸大名とも幕府の老中とも、ほとんど顔を合わせることもなかった。
経過から考えれば、家光のうつ病の発症には、忠長の殺害という事件が大きく「状況因」として影響していただろう。理由はともかくとして、実弟を死に追いやったことは、家光の精神に重くのしかかったと考えられる。
うつ病から回復した家光は将軍としての職務に復帰したが、安定した状態は持続せず、脳出血と思われる疾患により、48歳で死去した。
家光の墓所は日光東照宮にある。一方、不遇な生涯を終えた忠長は、高崎の大信寺に眠っている。43回忌を迎えるまで、忠長の墓石が建立されることは認められなかったという(岡崎守恭『墓が語る江戸の真実』新潮新書)。
家光の両親である秀忠と江の墓所は、芝の増上寺に置かれている。さらに高野山には、江に対する石造りの大きな供養塔が存在している。この塔を建てたのは、健在であった頃の忠長であった。
現実世界においては不幸な生涯を終えた忠長であったが、両親に寵愛され母への思いを貫いた人生は、修羅の孤独を歩んだ家光よりも幸福であったかもしれない。
(文=岩波 明)