ビジネスジャーナル > 社会ニュース > なぜオーケストラは鉛筆を重宝?
NEW
篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

なぜオーケストラは鉛筆を重宝?巨匠カラヤンとバーンスタイン、確執の元は楽譜の書き込み?

文=篠崎靖男/指揮者
なぜオーケストラは鉛筆を重宝?巨匠カラヤンとバーンスタイン、確執の元は楽譜の書き込み?の画像1
「Getty Images」より

 ロシアがまだソビエト連邦だった頃、宇宙ロケット開発分野では、超経済大国アメリカ合衆国としのぎを削っていました。ソビエトが世界で初めて有人飛行を果たし、アメリカは負けじと”アポロ計画”によって人類を月面歩行させるに至りました。

 その後、ソビエトは解体され、アメリカとの冷戦も終結。宇宙ステーションをロシアとアメリカが共同開発して、両国の宇宙飛行士が宇宙上で共同生活を始めました。そこへアメリカが持ち込んだ筆記具は、NASA(米航空宇宙局)が開発したボールペンでした。無重力の宇宙空間では、ボールペンのインクが、ペン先の球にうまく落ちていかないということで、1億円かけて開発した特別製です。そんな超高額ボールペンで研究データを書き込んでいたアメリカ人宇宙飛行士を横目に見ながらロシア人飛行士は、普通の鉛筆ですらすらと書いていました。

 これは有名なジョークの類ですが、鉛筆の原型は古代にまでさかのぼり、黒鉛を使った鉛筆は16世紀には使用されていたそうで、日本でも徳川家康がヨーロッパ製の鉛筆を使っていたといわれています。鉛筆は、かなり古くから現在まで愛用されてきた便利な筆記用具であることは確かです。

 今もなお、小、中、高校生は鉛筆やシャープペンシルを使用しています。「シャープペンシルはダメ。鉛筆を使うように」との指導を行っている学校も多いそうで、それはそれで驚きますが、大学生や社会人になれば、急に鉛筆を使うことが少なくなります。もちろん、現在ではコンピュータで文字を打ち込むことも多いので、直接文字を書く機会は少なくなっていますが、書くとなればペンを使用することがほとんどでしょう。

 なぜ一般社会ではあまり鉛筆が使われないかといえば、その短所、簡単に消してしまえることも大きな理由のひとつでしょう。たとえば、ビジネスの契約書の署名を鉛筆で書いたとしたら、誰かに消しゴムで消されて悪用されてしまう可能性もありますし、手書きの帳簿や領収書も同じことです。そのため、一般社会では、消すことができないインクを使ったボールペン等で書かなければならないケースが多くなります。

オーケストラでは鉛筆を重宝

 しかしながら、鉛筆で書いた文字を簡単に消すことができる点は、長所でもあります。オーケストラの楽員も社会人ではありますが、今もなお、鉛筆を使用しています。しかも、字が細く書けるシャープペンシルではなく、Bか2Bのような、濃く、太く、書きやすい普通の鉛筆です。特に人気があるのは、消しゴム付き鉛筆です。身近に音楽家の友人がいる方は、ぜひ消しゴム付きの高級鉛筆をプレゼントすれば、大喜びされることでしょう。

 そんな鉛筆が大活躍するのはリハーサル時のことで、もちろんコンサート時には片付けられています。リハーサル初日から本番直前の総げい古(通称:ゲネプロ)まで、一つひとつの譜面台に、きれいに削られた消しゴム付き鉛筆が並べられており、楽員はベートーヴェンチャイコフスキーを演奏しながら、指揮者が指示を出したり、コンサートマスターが弓遣いを変えたりするたびに、その鉛筆を手に取って楽譜に指示を書き込んでいきます。

 もっと正確に言えば、前回演奏した時の書き込みを鉛筆に付いた消しゴムで消し、くるりとひっくり返して新しい指示を書き込んでいくのです。そんな時間には、リハーサル時間が足りなくても、指揮者は我慢しながらじっと待つことになります。オーケストラが演奏するサウンドだけでなく、楽員が鉛筆で書いているサラサラという音も、リハーサル時の重要な音なのです。

 さらに、オーケストラのみならずピアニストや歌手にとっても、楽譜は単なる印刷物ではなく、まるで生きているかのように演奏に応じてアップデートされていくので、鉛筆が最高です。もちろん、音符自体に手をつけるわけではなく、書き込むのはあくまでも解釈上の演奏方法ではありますが、もしボールペンで書きこんでしまったら、再度の変更があっても消すことはできなくなりますし、次回以降に同じ楽譜を使う楽員は困ってしまいます。

 ちなみに、有名な曲や演奏回数が多い曲でない限りは、楽譜出版社は大量印刷して販売せずに、限られた部数の楽譜を所有して、その都度、オーケストラに貸し出すシステムなので、このような楽譜を使用する場合には、ますます注意が必要になります。賃貸契約書にも、書き込みがない元の状態に戻して返却するように記されており、特に消すことができないペン等を使用すれば弁償することが付記されています。

 とはいえ、実際には真面目な日本のオーケストラのライブラリアンなら、ある程度きれいにしてから返却するかもしれませんが、欧米のオーケストラでは、ほとんどそのまま送り返しているようですし、出版社も自分たちで消しゴムをゴシゴシ使って、新品同様にしてから次のオーケストラに貸すわけではないので、いろいろなオーケストラの書き込みが残っていくわけです。さまざまな国々の言葉が残っていたりすることもあって、それを見ているのも結構興味深いものです。

 僕も、楽譜に残っている書き込みを見ながら、「なるほど、ふむふむ、確かにそうだ」などと感心することもよくあり、正直、ありがたく思う時もあります。もし、その書き込みが作曲家から信頼の厚い指揮者やオーケストラのものならば、とても重要な資料にもなります。

バーンスタインとカラヤンの確執

 一方、指揮者やオーケストラにとっては、書き込みは音楽やサウンドをつくる企業秘密のようなものでもあります。有名ラーメン店が「うちのスープは、鶏ガラと豚骨に、玉ねぎとショウガ。そこに、あるスパイスを入れますが、これは教えられません」と答えるのに少し似ているかもしれません。

 ここで思い出したことがあります。アメリカ人の大巨匠レナード・バーンスタインは、マーラーの音楽を大得意にしていた指揮者でしたが、20世紀を代表する大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンは、自分のオーケストラである世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に、ライバルのバーンスタインを招待しませんでした。

 ところが一度だけ、バーンスタインを招待することに対してカラヤンが首を縦に振ったことがあったのです。その時にバーンスタインが指揮をしたのは、十八番のマーラーの交響曲第9番で、空前の大成功を収めました。

 実は、この話には続きがあります。その後、カラヤンはバーンスタインが使用した楽譜で、同曲をレコーディングしたのです。もちろん、バーンスタインとはまったく違う演奏で、カラヤンにもそんなつもりはなかったと思いますが、弦の弓遣いまで同じだったこともあり、バーンスタインは「カラヤンにどろぼうされた」と、ずっと怒っていたそうです。

 僕にとってはカラヤンもバーンスタインも、ずっと理想としている憧れの指揮者なのですが、この事件に関しては、バーンスタインの気持ちが少しわかります。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

●オフィシャル・ホームページ
篠﨑靖男オフィシャルサイト
●Facebook
Facebook

なぜオーケストラは鉛筆を重宝?巨匠カラヤンとバーンスタイン、確執の元は楽譜の書き込み?のページです。ビジネスジャーナルは、社会、, , , , の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!