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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

指揮者の聴覚はどれほど鋭い?指揮コンクールの壮絶な試験内容と舞台裏

文=篠崎靖男/指揮者
指揮者の聴覚はどれほど鋭い?
指揮者のイメージ(「Getty Images」より)

 テレビで天気予報の特集番組を見ていたところ、興味深い実験がありました。被験者に日本全国の天気予報の画面を見せますが、北海道から九州まで晴れマークです。そこで、気象予報士が、「日本海側は大雪、太平洋側は雷雨を伴った大荒れの天気」と解説します。その後、被験者に「洗濯を干せるか?」と質問したところ、「干せる」と答えてしまうのです。

 これは、いかに人間は聴覚よりも視覚から多くの情報を得ているかという証明ですが、実は味覚も怪しいようです。アメリカでの実験で、オレンジ色をつけたリンゴジュースを街ゆく人々に飲んでもらい、何のジュースかを尋ねると、ほとんどの人は「オレンジジュースだよ」と、まるで“なんてくだらないことを聞くのか”といったような顔で答えるのです。

 天気予報でも、リンゴジュースでも、種明かしをすると被験者は皆驚きます。それほどまでに、人間は視覚から得られる情報が大きいのでしょう。調べてみたところ、感覚全体のなかで、視覚は87%も占めており、2位の聴覚でさえも7%しかありません。味覚に関してはたったの1%だそうです。

 聴覚や味覚が間違えてしまうほどに、人間は視覚に簡単に左右されてしまいます。その証拠に、大手4社のビールのラベルを外して、ビール当てクイズを行ったとしても、4つとも当たる方はほとんどいないでしょう。普段、「サッポロが一番だ」「キリンでないとダメ」「アサヒに限る」「サントリーが好きだ」と言っていたとしても、多くの人はラベルを見ながら、お好みのビールを確認しながら飲んでいるわけです。

指揮者の聴覚

 そこで、聴覚の芸術である音楽はどうなのかと疑問が沸きます。確かに僕は音楽家を長くやってきたので、一般の方よりも聴覚を通じた情報がたくさん入ってくる傾向にあるような気がします。また、駅の構内で電車の発車を知らせる音楽を聴いていても音符を思い浮かべたりすることもあるくらいなので、僕の場合は参考にはならないと思いますが、それでも生活のほとんどの場面では、僕も視覚情報に頼って生きています。

 そんな視覚と聴覚ですが、それがよくわかるものに、指揮者の登竜門である指揮者コンクールがあります。いくつかのコンクールでは、“オーケストラの間違い探し”という課題があるのですが、事前にオーケストラには数カ所の変更が加えられています。指揮者は、指揮者用の楽譜を見つつ実際にオーケストラを指揮しながら、誰が違う音を弾いているとか、あるはずの音を演奏していないなどと、どんどん指摘していかなくてはなりません。

 そのなかで当てるのが結構難しいといわれているのは、ホルンのパートをトロンボーンが吹いている場合です。ホルンとトロンボーンは、見た目も楽器の特徴もまったく違うのですが、トロンボーンがホルンの音色を真似すると、実に似ているのです。そこを正確に聞き分けて、「ホルンとトロンボーンが入れ替わっている!」と当てられれば正解というわけです。

「そんなに簡単な問題、自分でもわかるよ」というオーケストラ愛好家もいると思います。しかし、実際にはホルンかトロンボーンが吹いているのを目で確かめながら、耳を傾けていることもあるのでしょう。

 余談ですが、そんな指揮コンクール、もちろん意地悪クイズのようなことばかりやっているわけではなく、一次審査ではピアノを指揮する場合もありますが、一次、二次から準決勝、決勝まで、実際にオーケストラを指揮して、音楽性とオーケストラをコントロールする能力を厳しく審査されます。

指揮コンクールは順番が結果を大きく左右

 僕が第2位を受賞した、フィンランドで行われたシベリウス国際指揮コンクールを例に取ると、第一次審査では、まず10分程度、課題曲を指揮しました。大概のコンクールで、第一次審査はベートーヴェンが課題として選ばれることが多いです。ベートーヴェンは指揮者にとっても、基本中の基本なのです。ただし、ここに指揮コンクールならではのクジ運が加わります。ピアニストやヴァイオリニストのように、自分の楽器を演奏するのとは違う点です。

 それは、実際にオーケストラを指揮することが原因です。オーケストラは事前練習をしてこないことが多く、仮にしたとしても、審査員のひとりが1回だけさっと指揮をするくらいです。そのため、ある有名な大指揮者が弟子に「トップバッターに選ばれたら、もう仕方ないよ」と言ったように、トップバッターが張り切って指揮をしても、オーケストラの楽員はまだ楽譜に目を釘付けにしている状態で、アンサンブルもまとまっておらず、指揮者としては、にっちもさっちもいかない状況になります。

 実は、僕も別の海外でのコンクールで、そんな経験をしたことがあります。難曲にもかかわらず、オーケストラは初めて楽譜を見ているらしく、その後に続く指揮者のための練習をしたような感じとなりました。3~4人が指揮をした後はアンサンブルもばっちりで、その後の指揮者はそれに乗っかって調子よく指揮できるので、高得点が期待できることになります。

 そうやって、各々の指揮者が悲喜こもごも指揮を終えた後、翌日のラウンドに進めるメンバー発表が行われます。今までべらべら話していた指揮者の卵たちが、一斉にシーンとなる瞬間です。決勝には4名程度が進めるので、準決勝で8人残っていたとして、仮に自分が6番だった場合、「1番、3番、7番……」と発表が進めば、その時点で涙することになります。しかし8番だったしたら、7番を読み上げられた瞬間に残りは自分だけなので、「やったー」となります。

 とはいえ、大喜びでホテルに戻っても、翌日にはまた厳しく審査されるわけですから、青い顔をして楽譜を広げることになります。コンクールによっては、勉強しきれないほどたくさんの課題を出しておいて、「明日はこれとこれを指揮して」と急に言われることもあり、もしあまりなじみがなかった曲が課題になったとしたら、徹夜で準備することになるのです。

 余談ですが、コンクールを受けるためには多額のお金もかかります。参加費はたいしたことはないのですが、指揮コンクールは一年に世界中で2~3会場しかなく、今年は「フランス、イタリア」、来年は「フィンランド、デンマーク、そして日本」と、渡航費も宿泊費も自腹で向かうのです。もちろん、入賞すれば150万円、100万円などと、経費を差し引いてもおつりがくるような賞金をもらえますが、途中で落ちてしまった指揮者には何もなく、記念品のタオルとかペンなどをもらって帰りの飛行機に乗るわけです。

 それでも、コンクールの結果によって、その後の人生が大きく変わることは確かです。今まで見向きもされなかった若い指揮者に、オーケストラからの指揮依頼がたくさん舞い込んでくることもあり、まるで漫才コンビのコンクール「M-1グランプリ」のように、壮絶な戦いになるのです。

 そんな指揮者コンクールですが、「あの指揮者は良いね。指揮棒から音が見える」という褒め言葉があります。文章的には変なのですが、実際にオーケストラの楽員は指揮棒を見ながら、指揮者の求めている音を想像して演奏します。考えてみたら不思議なことですが、音楽家であってもやはり感覚の大部分が視覚ですので、自分でも気がつかないようなさまざまな情報を視覚から得ているのでしょう。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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