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モーツァルト&ベートーヴェン、極貧だったという“常識”の嘘…実は富裕層?

文=篠崎靖男/指揮者
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「晩年のモーツァルトは、浪費癖がある妻に悩まされ、極貧のなかで苦しみながら名作オペラ『魔笛』を作曲した」

「ベートーヴェンは弟たちの経済的援助をしなくてはならず、質素な生活のなかで至高の交響曲を書き上げた」

 これらは、小中学校で音楽の授業を熱心に聞いていたり、クラシック音楽に興味がある方であれば、必ず聞かれたことがある有名な話です。

 しかしながら、最初に結論を申しますと、2つとも嘘の話です。とはいえ、まったく間違いというわけではありません。

 確かに、晩年のモーツァルトは以前ほど収入がなくなっていたにもかかわらず、妻のコンスタンツェは夏になると夫をウィーンに残して近郊の温泉保養地に滞在し贅沢三昧。そこにはモーツァルトの弟子も同行しており、2人の関係も怪しいと噂されていました。そこでモーツァルトはウィーンから手紙を出し、「人前での変な行動には気をつけるように」と忠告していますが、妻は「お金が足りないから送ってほしい」と、何食わぬ顔で手紙を送ってくる具合でした。

 モーツァルトは、それまでは王侯貴族のためにだけ作曲していればよかったのに、民衆のための娯楽オペラの依頼を受けるほど、お金に苦労していたという話が伝わっています。

 ところが、妻コンスタンツェが温泉保養地に通っていたのは持病の脚の治療のため、医者に勧められたからです。同行していた弟子も、脚が不自由な奥様のために、腕を取って補助していたところを、偶然通りがかったモーツァルトの友人に見られただけかもしれません。

 そもそもモーツァルトは、当時ヨーロッパ最大の王室のひとつであるハプスブルク家の宮廷作曲家として、かなりの高給取りでしたし、ウィーン以外でも、たとえばチェコ・プラハなどではスーパースター作曲家だったので、少しくらい贅沢をしても、まったく生活に困ることはなかったはずです。そうでなければ、妻を高級保養地に滞在させることなど不可能です。何より、お金のために民衆の娯楽オペラを作曲したようにイメージされている『魔笛』も、今では“モーツァルトの最高傑作”ともいわれています。

ベートーヴェン、実は大富豪だった

 彼を苦しめたのは、妻の浪費でも、仕事依頼が減ったからでもなく、彼自身の問題でした。実は、彼はギャンブルに夢中だったといわれています。モーツァルトが通っていた高級カジノは現在も営業を続けており、一攫千金を狙うギャンブラーたちがどんどん吸い込まれていきますが、モーツァルトは一攫千金どころか、ギャンブルが最悪に下手だったのです。

 すぐに感情が表に出てしまう芸術家は、顔色ひとつ変えずポーカーフェイスが基本中の基本とされるギャンブルには向いていないと思います。モーツァルトは、ギャンブルでお金を使い果たして一文無しになって自宅に帰り、寒い部屋に入って初めて、暖房のための薪やパンも買うお金がないことに気づき、前日にお金を借りたばかりのパトロンに、「今日もお金を貸してほしい」と手紙を出すありさまでした。

 こういうモーツァルトの一面を考えると僕は、モーツァルトと同じく早世の大天才である詩人の石川啄木を思い出します。

 彼は本当にお金がなかったのですが、「ふるさとの山に向ひて、言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな」といった素朴な詩を書きながら、同じふるさとの岩手出身でアイヌ語の研究者としても有名な金田一京助にたびたびお金の無心をして、受け取ったお金を持ってそのまま遊郭行き、遊興三昧をしていたのです。金田一京助のご子息で言語学者の金田一春彦さんの話では、もともと貧乏な生活を送っていた金田一家は、石川啄木にお金を貸すことで、ますます苦労をしていたそうです。

 話は戻りますが、「ベートーヴェンは、辛酸をなめるような生活のなかでも、不屈の精神で数々の名作を作曲した作曲家である」と、皆さんも学生時代に音楽教師から言われたことがあるでしょうか。実際にベートーヴェンは、弟たちに対する援助や、後見人になった甥カールの素行のために、それなりに苦労したことは事実です。そのうえ、一生涯独身を貫いたベートーヴェンは、その孤独からなのか、甥に対する愛情は過度な教育熱心さとなって現れました。その結果、カールは精神的に不安定になり、非行に走るだけでなく、何度も自殺未遂を起こしてしまうのです。

 裁判を起こしてまで、実母からカールの親権を奪ったベートーヴェンですが、以前に本連載記事『貧困イメージの強いベートーヴェン、実は莫大な遺産を残していた』でも書いたとおり、質素な生涯と思いきや、実はしっかり資産を貯め込んでいました。亡くなった際の遺産は、なんとオーストリアの高額遺産額ランキング上位5%に入るくらい巨額でした。

人気作曲家の遺族には莫大な印税

 他方、『春の祭典』を作曲して大スターになったストラヴィンスキーの場合は、アメリカに移住した当初は、本当にお金に困ったようです。

 ストラヴィンスキーは、ロシアで育ち、フランスで名声を築き上げた20世紀を代表する作曲家です。ナチス台頭の影響もあり第二次世界大戦開戦直後の1939年、米ハーバード大学の依頼によって、音楽に関する講義を6回行ったのち、そのままアメリカに移住にしてしまいます。

 アメリカでも、これまでに作曲した曲の著作権で悠々と生活できると思いきや、思いがけない大きな壁にぶつかってしまいます。当時のアメリカでは、ストラヴィンスキーは亡命ロシア人として扱われて著作権を受け取れなかったのです。そこで、これまでにヨーロッパで作曲したヒット曲を少し変えて新曲として出版したり、ストラヴィンスキーの七転八倒が始まるわけです。

「レストランでは、現金で支払わずに、必ず小切手に署名をして切る。僕の署名が入った小切手ということでレストランは大切に所有するので、銀行に持っていって換金されることはないからね」と、ストラヴィンスキーが冗談か本気なのか語ったというエピソードは、今もなお、アメリカの音楽家の中に残っています。

 そんな苦労をしたストラヴィンスキーですが、残された遺族は状況がまったく違います。今もなお大人気のストラヴィンスキー作品の著作権が切れるのは2041年。それまでは印税がどんどん入ってくるため、たとえば超高級レストランに行っても、涼しい顔でクレジットカードの一回払いで支払ってしまうに違いありません。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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