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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

盗難に遭いやすい楽器と遭いにくい楽器、何が違う?2億円のヴァイオリンの盗難も

文=篠崎靖男/指揮者
盗難に遭いやすい楽器と遭いにくい楽器、何が違う?2億円のヴァイオリンの盗難もの画像1
ヴァイオリン(「Getty Images」より)

 ピアニストはもちろんですが、指揮者にもピアノは必需品です。指揮者にとってのピアノとは、たまにはモーツァルトやショパンのピアノ曲を弾くことがあっても、それは気晴らし程度のことで、実際にはベートーヴェンやチャイコフスキーなどのオーケストラ曲の楽譜を勉強するときに弾いて確認したりするためなのです。

 指揮者の勉強とは、楽譜を見ながら、書かれている音を頭の中で響かせたりするのですが、それでもピアノで一つひとつ弾きながら、ハーモニーなどを正確に把握する助けのために使ったりします。特に、20世紀に入ってからは音楽が複雑化してきたので、ピアノで音を確かめる作業は必要なことが多くなります。

 そのようにして、実際にオーケストラのリハーサルに向かうまでに、楽譜を入念に勉強し終えるわけです。よくファンの方から、「篠崎さんは、誰のCDを聴いて勉強なさっておられるのでしょうか?」などとたずねられることがありますが、プロの指揮者は誰かのCDを聴いてマネをするようなことはしません。そんなことをしても、借り物のボロがどこかで必ず出て、オーケストラにも観客にもばれてしまいます。

 とはいえ、僕もまったくCDを聴かないわけではありません。作曲家自身が指揮をした録音はとても貴重な研究材料となりますし、ほかの指揮者の演奏を聴いて参考にすることもあります。それでも、それをそのままマネして指揮することはなく、やはりピアノも使いながら、じっくりと楽譜に取り組んで、自分の音楽をつくり上げていきます。

 ところで、ピアノの重さは、大きなコンサートホールで使用する最大のグランドピアノだと、400キロを超えます。通常のものでも300キロ程度と、成人男性4人分くらいの重さがありますし、趣味のピアノ愛好家や、僕が家で弾いているようなアップライトピアノでも250キロくらいあるので、引っ越しの際に運ぶのは専門業者でないと無理です。

 たった2人の業者の方が階段を担ぎ上げたりしますが、僕の経験上、プロレスラーのような体格の方ではなく、見た目は一般的な体型の方が、ぐいぐいと運んでいます。普通の人ならばビクともしないはずですが、そこにはプロの技があるのです。そんなわけで、ピアノを使う音楽家の引っ越しは、引っ越し費用よりもピアノを運ぶほうが高額になることも珍しくありません。

 さらに、問題は運送だけではありません。家探しもひと苦労です。しかも現在は、近隣の騒音問題が厳しくなっていることで、ますます大変になっているのですが、何よりもピアノの重さに耐えられるだけの床の強度が必要なので、不動産会社をたずねても、物件がものすごく少ないのが実情です。地方から出てきた音楽大学の受験生が、合格の発表のあとに喜んでいる間もなく、すぐに不動産会社に飛び込んでも、良い物件は、なんと受験日に埋まっていたというようなことまであります。これは冗談ではなく、僕も音楽大学に合格したあとに父親と家探しをしていた際、賃貸担当のスタッフに言われました。

 このように、さまざまなネックになるピアノの重量ですが、逆に良いこともあります。それは、高価な楽器であるにもかかわらず、僕は盗難の話を聞いたことがありません。盗もうにも、重すぎて運び出すことは不可能だからでしょう。

 他方、片手でさっと持てるヴァイオリンは、これまでにもよく盗難の話を聞くことがあります。ひどい話となると、音楽大学の練習室に高級ヴァイオリンを置いて、ちょっと用足しに出た合間に持ち去られてしまったというケースもあるのです。

 音楽専門の大学生とはいえ、ちょっとした家を買えるほど高額な楽器を持っていることも、日本では珍しくはありません。海外のオーケストラを指揮していると、「こんなひどい楽器を弾いているの?」と思うことがよくありますが、日本では、プロはもちろん、音楽学生であっても、所有するヴァイオリンは大概はかなりの高額で、盗まれてしまったら、あっという間に闇市場で売りさばかれてしまいます。

価値を知らずに名器ストラディヴァリウスを盗んだ少年2人

 そんなヴァイオリンに関して、犯人が実際の値打ちをまったくわかっていなかったという盗難事件が、2020年のイギリスで起こりました。事件の発端は、韓国出身のヴァイオリニスト、キム・ミンジンさんがロンドン市内で食事中、15歳と16歳の少年2人に、現存する楽器が600丁程度しかない、世界的名器のストラディヴァリウスを盗まれてしまったのです。

 海外では、食事中に盗難事件は意外とあります。僕もロンドン在住中に、複数名の友人たちとレストランで食事中、ひとりの友人の鞄が盗まれたことがありました。鞄の中には、財布、携帯電話などの貴重品が入っていたので大騒ぎになったのですが、複数名で食事をしていたのにもかかわらず、誰一人として近くに人が通ったことすら見ていなかったのです。まさにプロの犯行でした。海外ではレストランであっても、安全な場所ではないと思い知らされた経験でした。

 さて、キム・ミンジンさんのヴァイオリンを盗んだ犯人の少年2人は、まさかこのヴァイオリンが1696年製の名器ストラディヴァリウスとは知らず、犯行後に近くの場所で、わずか100ポンド(当時のレートで約1万7000円)で売ろうとしていたそうです。どんなに安いヴァイオリンでも、2万円弱で買えるものなんてありませんし、この2人は何もわからずに犯行に及んだのでしょう。

 その後、このストラディヴァリウスがロンドンから離れた地方の民家から無傷で発見されたときには、キムさんはすでに新しい楽器を入手していました。楽器がなくては仕事にならないので、それは当然のことです。そこで早速、この楽器は競売にかけられ、なんと138万5000ポンド、日本円にして約2億3600万円で落札されたのです。

 知らなかったとはいえ、そんな大名器を一度は手にした窃盗犯が悔しがったかどうかわかりませんが、この少年2人を含む3人の実行犯は捕まり、翌年に有罪判決を受けました。

 ところで、ほかの楽器で盗まれる話はあまりないですね。銀、金やプラチナでつくられているフルートなら金属としても価値があるようにも思えますが、これまでに盗難事件はなかったわけではないとしても、僕自身は聞いたことがありません。ましてや指揮棒なんて、盗んだところで仕方がないくらい、まったく価値がありません。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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