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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

なぜオーケストラには指揮者が必要?指揮者なしでも正確な演奏は可能という事実

文=篠崎靖男/指揮者
オーケストラを指揮する指揮者
指揮者のイメージ(「Getty Images」より)

指揮者なんて、最初だけ振ってテンポを教えてくれたら、あとはオーケストラだけで演奏できるよ」

 僕が米ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者を務めていた時期に、親しくなった楽員が冗談交じりに言った言葉です。確かにその通りで、20世紀以降の込み入った曲では難しいですが、通常はテンポが変わることがない限り、指揮をしなくてもオーケストラは演奏を続けることができます。

 指揮者はホールの客席に行ってオーケストラのサウンドをチェックすることがあるのですが、指揮者なしでもオーケストラは正確に弾き続けています。それどころか、自分が指揮をしているよりも良い音が出ていて、少しがっかりすることもあるくらいです。

「指揮者が客席に行く時に、むしろもっと良い音を出そうとがんばったりするんだよね」と、親しいコンサートマスターが笑いながら話してくれました。指揮者とオーケストラのプライドがぶつかり合うような丁々発止を繰り返しながら、リハーサル、本番と進んでいくのです。

 オーケストラの音を良くすることは、指揮者の大事な能力のひとつです。もちろん簡単な話ではありませんし、特に優秀なオーケストラであればあるほど、常日頃の演奏自体が素晴らしいわけで、それ以上のクオリティをつくるのは至難の業となります。

 しかし反対に、クオリティを壊すのは簡単です。音楽大学出たてのひよっこ指揮者であっても、世界的な大巨匠であっても、以下の方法を使えば、オーケストラはあっという間に演奏不可能に陥るのです。

オーケストラが簡単に演奏不可能に陥る方法

 そのやり方を明かす前に、少し説明が必要でしょう。オーケストラの楽員は、目の前の譜面台に置かれた楽譜を見て演奏しています。重要な場所では、楽譜から目を離して指揮者を見ることもありますが、楽譜を見ないことには演奏ができませんし、一時も目を外すことができないような複雑な楽譜を演奏することもあります。しかし、常にどこかで指揮者を見ているのが不思議です。指揮台からは、誰も見ていないようであっても、指揮に即座に反応するのです。

 もちろん、指揮がよく見えるように、すべての楽員が指揮者のほうを向いて演奏しているのですが、もしかしたらベテランの楽員などは、無意識に近い状態で指揮者を見ているのかもしれません。指揮を“見る”というよりも、“見えてしまう”と言ったほうが正確かもしれません。

 たとえば、熟達したタクシードライバーが、前方の信号や周りの車に注意を集中して運転しながらも、どこかで手を上げている乗客を目で追っているのと似ています。ほかにも、夜にパトロール中の警察官が、パトカーを運転しながら、すれ違ったクルマのドライバーの目線を不審に感じて職務質問をしたりするという話を聞いたこともありますが、それも同様でしょう。

 さて、そんなオーケストラですが、指揮者が演奏をめちゃくちゃにする方法は至って簡単です。演奏も始まり、「指揮者なんていなくても演奏できる」という状態になったとします。そこで指揮者がまったく違うテンポで指揮をするだけで、オーケストラは総崩れするのです。どんなに著名なオーケストラでも、間違いなくめちゃめちゃになるでしょう。楽員は、長年の経験により、見ているつもりでなくても見えてしまう指揮のテンポに、体が勝手に合わせるようになっているので、混乱してしまうのです。

 実は、もうひとつ方法があります。これも簡単で、拍子と違う方法で指揮をすると、テンポが正しくても、これはこれで大変なことになってしまうのです。

 音楽には「拍子」があることはご存じだと思います。代表的なものに、2拍子、3拍子、4拍子、6拍子とありますが、各々、指揮をする形が決まっています。たとえば、3拍子の音楽なのに4拍子の形で指揮をしたら、大変なことになります。拍子にはほかにも5拍子や7拍子などもありますが、5拍子なのに三角形の形で指揮をする3拍子のやり方で指揮をしたら、世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団であっても、自分が演奏している拍がわからなくなってしまって、ほどなく総崩れしてしまうでしょう。

 そうなると、「指揮しなくても演奏できるよ」ではなく、むしろ「頼むから指揮をしないでくれ。自分たちで勝手に演奏するから」と言われることは間違いありません。

なぜ指揮者がいなければならないのか

 では、指揮者とは、いったい何なのでしょうか。なぜ必要なのでしょうか。

 オーケストラは、時に100名を超えるメンバーが一緒に演奏します。しかし、毎年12月になればいやになるほど演奏するベートーヴェンの『第九』であっても、一人ひとりの曲に対する考え方やイメージが異なるのは当然です。たとえば、一人ずつ別室で『第九』を演奏する実験をしたとしたら、100人が100人とも、異なるテンポ、異なる雰囲気で演奏するに違いありません。そこで指揮者の出番となります。「今回はこれでいきます!」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、指揮棒を振りながらテンポや音楽的雰囲気を伝えて統一していきます。

 ここで疑問に思われたと思います。テンポは指揮を振るだけで伝わりますが、音楽的雰囲気をどうやって伝えるのでしょうか。指揮を柔らかく振ったり、固めに振ったり、時には顔の表情を使ったりと、さまざまな方法があるのですが、テンポの速い遅いだけでも、音楽的雰囲気はがらりと変わります。

 そこで思い出したのは、ビートルズの出世作『Please Please me』です。ビートルズ初アルバムの1曲目を飾り全米チャート第1位を取ることになった、「ビートルズといえばこの曲」と言えるような、軽快な曲です。

 しかし、ジョン・レノンが当初作曲したときは、スロー・テンポな曲だったそうです。当時のレコーディング・プロデューサーのジョージ・マーティンは、「テンポが遅く退屈で、ヒットしそうな見込みはない」と感じたそうですが、思いつきで「テンポを上げてみたらどうか?」と提案した結果、世界的な大ヒット曲になりました。テンポひとつで音楽の印象が大きく変わるのは、どの音楽の世界でも一緒なのだと思います。

 テンポを決めるのは、指揮者にとっては腕も見せ所です。速ければ良いというわけでもなく、ゆっくりとしたテンポで、聴衆の心にしみじみと音楽の良さを伝えることもあります。しかも、オーケストラもどんなテンポでも演奏できるわけではないですし、作曲家の意図も考えながらテンポを決める作業には毎回、僕も頭を悩まされ続けています。

(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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