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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

音楽家は一度でも遅刻をしたら干される?意外と重宝する黒のガムテープ

文=篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師
音楽家は一度でも遅刻をしたら干される?
「Getty Images」より

 実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏が「遅刻に怒るような人とは仕事しないほうがいい」「遅刻に起こる人は能力値が低い」などと言って大炎上していますが、彼の本意は“成果で判断すればいい”ということだと思います。

 一方、オーケストラの場合は、全員が集って“よーいどん”でリハーサルを始め、全体で音楽をつくり上げるので、一人でも遅刻したら大問題です。とはいえ、指揮者やソリストのなかには遅刻魔が結構いて、彼らがいないことにはオーケストラもリハーサルをできないので、長い時間、楽員は待たせられたりすることもあります。

 その後、遅刻した指揮者やソリストが何食わぬ顔をしてやってきて、そんなことを忘れさせるようなすばらしい演奏という成果を出したりするので、ひろゆき氏のような成果優先の天才型はいないわけではありません。しかし、そんな指揮者やソリストが来日した場合には、厳しい顔をしたマネージャーがそれこそ24時間見張っているような緊迫した状況になるのです。基本的に遅刻は御法度の世界、それが音楽界です。

 しかも、自分だけが御法度を守ればいいというわけではなく、自分が紹介した音楽家の失態の責任も取らなくてはいけないこともよくあるのが、日本の厳しい音楽界です。

紹介した音楽家が遅刻しても責任問題に

 僕が大学4年生の頃、指揮の勉強だけでなく声楽も学んでいたので、良い指揮者が指揮をする合唱の仕事を先輩から回してもらっていました。たとえばオペラ公演の仕事をもらった場合、出番が終わった先輩合唱団員が帰っても劇場に最後まで居続けて、世界的名歌手の歌声を聴いたり、モニターに映るイタリア人指揮者の指揮ぶりを眺めたりして勉強していたのです。

 そんなある日、マーラーの交響曲第8番の合唱の仕事が舞い込んできました。この交響曲は空前絶後の規模の曲で、マーラー自身が初演したコンサートでは、オーケストラ、ソリスト歌手、合唱団という総勢1000人を超える出演者が舞台に立ったことで、「千人の交響曲」とも呼ばれています。今でも、1000人とはいかなくても、多くのオーケストラ楽員、合唱団が必要な交響曲です。

 いつも仕事でお世話になっていたマネジメント担当者としても、普通に合唱団員を集めても到底人数が足りないので、「篠﨑さん、音楽大学の声楽科の学生を集めてくれませんか?」と依頼をしてきました。僕もいつも仕事を頂いている恩返しとともに、恩を売っておいて、これからも仕事をもらおうとの魂胆から、張り切って、たくさんいた女声の同級生たちに声をかけました。

 ところが、ある“事件”が起こりました。たった一日のリハーサルなのですが、大学の声楽の授業が延びてしまって、彼女たちの数名が少々遅刻してきたのです。僕はそれまでにも仕事をしていたので遅刻の重大さをわかっていましたが、彼女たちは初仕事で音楽界の御法度など知りません。僕は真っ青になっていましたが、マネジメント担当者もそこは割り切って、「いやあ、急いで来てくれてありがとう」などと優しい言葉をかけていました。

 僕は少しホッとして、担当者に「同級生たちがすみません」と言ったところ、ものすごく怖い顔をして無視されたのです。つまり、そんな遅刻をするような連中を紹介した僕の責任というわけです。

 当時はバブル期の真っ最中で、企業の冠コンサート等がたくさんありました。今考えれば、無駄にコンサートの数だけが多かったような気もしますが、大企業各社が競うようにクラシックコンサートを開催する時代で、そこにはクラシック音楽のブランド力を利用した企業のイメージ戦略も絡み合っていたのだと思います。

 結果的に、大学生や大学出たてのペーペー演奏家や声楽家にも仕事がたくさんあって、良いアルバイトになっていました。その頃、大学生の僕に指揮の仕事などあるはずもなく、数少ない“男性の歌い手”というだけで良い小遣い稼ぎができていたのです。

一度の遅刻で“干される”

 さて、そんな遅刻事件があった翌日、本番の楽屋でのことです、マネジメント担当者は、男性楽屋に入ってきて、一人ひとりのメンバーに、次の仕事の依頼書を渡していました。当時はメールもなく、紙の依頼書を渡されることは、次の仕事にありつけることを意味していました。

 ところが、部屋にいる全員に依頼書を渡していたにもかかわらず、僕の前は素通りしたのです。僕にはどうしようもなかったとはいえ、つまり、遅刻をするような声楽家たちを紹介したペナルティだったのです。簡単に言うと、僕は“干された”のです。

 この連載で何度か、“音楽界での一番の重罪は遅刻だ”と書いていますが、「何もそんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないか」と思う方もいるかと思います。確かに、オーケストラの弦楽器の一人や、合唱団メンバーの一人がいなくても、大勢に影響はないように思えますが、一人だけでもずれて演奏したら全体にかかわるので、一人も欠けることなく練習をしなくてはなりません。

 さらに、たとえばフルートやトランペットのような一人ずつ違う音符を演奏する管楽器や、ソリスト歌手などが遅刻してしまったとしたら、それだけで演奏ができなくなってしまいます。同様に、コンサートマスターはもちろん、指揮者が遅刻することなど、僕は想像するだけで怖くなります。

 大都市圏での交通渋滞が激しい日本では、遅刻は不可抗力のようにも思えなくはないですが、仮に電車の遅延が原因であっても、遅れてきたメンバーには同情などなく、むしろ厳しい視線が送られてきます。このあたりはとてもシビアで、どんな理由であれ、弦楽器の1番後ろで弾いている人でも、大勢の合唱団員の一人であっても、遅刻は到底許されることはなく、御法度中の御法度。一度でも遅刻してしまえば、その後に遅刻しないことは当然として、毎回1時間前に会場入りするくらい大真面目に取り組んでいても、しばらくの間は針のむしろの上で過ごすことを覚悟しなくてはならないのです。

遅刻以外の“音楽界での御法度”

 遅刻の次の御法度といえば、当然のことながら、曲の練習ができていないことでしょう。とはいえ、ベテラン奏者ともなれば、何度も演奏した曲などは大して練習は要りませんが、大学を卒業したばかりの団員は、楽譜を知り尽くしている楽員に囲まれながら、毎回、実技試験を受けているようなものです。少しでも不具合があれば、「あの新人、ダメだね」とレッテルを貼られて、それを払拭するのにはかなりの時間が必要となります。

 第3の御法度は、忘れ物です。演奏会用の衣装はバッチリと用意したものの、「靴を忘れた」「蝶ネクタイを忘れた」といったことが意外とあるのです。これはどちらかというと、御法度というよりも少し笑える話の分野ですが、そんなときに役立つのは、黒いガムテープです。今履いているスニーカーに黒いガムテープをぐるぐる巻きにすると、客席からはわからなくなります。

 昨年のショパン国際ピアノコンクールで第2位を受賞した反田恭平さんも、コンクール開始の3分前になって、黒い靴下を忘れてしまったことに気づき、黒いマーカーで靴下を塗ってなんとかごまかしたそうですが、当人は顔から火が出るくらい恥ずかしかったのではないかと思います。ちなみに、蝶ネクタイは、オーケストラのスタッフが予備を持っていたりしますが、忘れた当人が焦ることには変わりありません。

 第4の御法度は、なんのことはない、挨拶漏れです。音楽界は、挨拶で始まって挨拶で終わるような社会で、体育会系のように礼儀を重んじる世界なのです。もし朝、先輩奏者に「おはようございます」と言わなかったとしたら、「あいつ、挨拶もできないよ」と、オーケストラの中で噂になってしまうかもしれません。それがオーディション後の試用期間だったとしたら、遅刻と同じく、最終決定に響いてしまうことでしょう。仕事終わりに「お疲れ様」と声をかけることも、当然です。

 最後に、楽員が指揮台の上を歩くのも御法度だと聞いたことがあります。海外のオーケストラでは、楽器片手に指揮台の上を通過して自分の椅子に向かう人もいますが、やはり日本は礼儀を重んずる国です。指揮者の僕としてはどうでもいいのですが、逆に一度、休憩中に練習しているチェロ奏者の前を不用意に横切っただけで、すごく怒られたことがあり、指揮者も気をつけなくてはいけないと気づかされました。

(文=篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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