不思議な命運に翻弄
長期化しすぎたワンマン経営がスズキの最大のリスクであることは歴然としてきたし、その状態が望ましくないことを最も理解していたのは、修氏当人だった。事実、1998年頃から修氏にとって最大の課題は経営継承であり、トップダウン経営の問題を克服する適切な時期を探り続けてきたのである。何度も組織を変更し、ワンマン経営の後に来るべき集団指導体制へ権限委譲を進めようとしてきた。
しかしスズキは、不思議な命運に翻弄され続けてきた。経営継承へ一歩踏み出すたびに想定外の事態に巻き込まれ、危機に陥る。一歩引こうと覚悟を決めた修氏は、再び自身の強力な経営力を発揮することで企業を危機から再生させる。その結果、スズキは一回り大きな企業となり、カリスマ経営者である修氏の経営力への依存心を強くし、そして修氏は一回り年齢を重ねていく。こんな循環が数回めぐっていくうちに経営継承は遅れに遅れ、気が付けば修氏は85歳の高齢に達していたのである。
2000年央からのスズキは、連続して襲い来る危機を乗り越え続けなければならなかった。まず、後継者最有力候補だった娘婿で元専務の小野浩孝氏を、社長指名直前にすい臓がんで失う。その直後には、スズキの未来を支える長年の戦略パートナーであった米ゼネラルモーターズ(GM)が経営危機に陥り、あっさりとスズキとの関係を清算してしまう。それとほぼ同時に、08年のリーマンショックが襲ってきたのだ。この会社存亡の危機に対し、修氏は自ら社長職にカムバックし、偉大な経営力でそれを乗り越えた。
そして09年にVWとの戦略提携をまとめ上げ、修氏の経営者人生の総仕上げ期に突入する。長男で後継者最有力に育ってきた俊宏氏に経営継承を実現し、本当の意味で経営者人生の第一幕を下ろそうと考えたのであった。
しかし、そのシナリオは実現できなかった。提携は一転して泥仕合の係争となり、スズキはVWによって敵対買収も受けかねない、企業存亡がかかる最大の経営危機を生み出してしまった。危機意識を抱いた修氏は、組織論など吹き飛ばし、問題を解決するまで会長兼社長の役職にとどまり、スズキの盤石な未来を構築できる改革の断行を決意した。それ以来、老体に鞭を打ち、がむしゃらに走り続けてきたのである。
「チームスズキ」への転換
俊宏氏は59年に修氏の長男として誕生した。「どのようなかたちかは別にしても、いつかはスズキに入社し会社に携わるだろう」。俊宏氏は小さい頃から、この思いを感じながら成長したという。94年に日本電装(現デンソー)に入社し11年間他人の釜の飯を食った後、94年にスズキへ入社し03年には最年少役員となり、06年に専務、11年に副社長へ昇格している。