由布院・老舗旅館、熊本・大分地震で半壊から奇跡の復活…全従業員解雇、被害3億円から逆転
大分県の由布院温泉。右奥に見えるのが由布岳
「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画や著作も多数ある経済ジャーナリスト・経営コンサルタントの高井尚之氏が、経営側だけでなく、商品の製作現場レベルの視点を織り交ぜて人気商品の裏側を解説する。
「3年前の大地震の際、由布院の施設でもっとも被害が大きかったのが『山荘わらび野』です。ここが営業を再開し、本当の意味で地震後のスタートラインに立つことができました」
大分県の由布院温泉観光協会・前会長の桑野和泉氏(由布院玉の湯社長)は、こう話す。桑野氏は今年、12年務めた同協会会長を退き、常任顧問に就任したが、「由布院らしさ」への活動は精力的に続けている。
山荘わらび野は、木造平屋のひなびた雰囲気で人気の旅館だったが、2016年4月の「熊本・大分地震」で半壊して営業を休止。19年2月15日に営業を再開した。
2018年の年間観光客数は「約400万人」
メディアや観光業者が選ぶ「行ってみたい温泉」で、毎回上位に入る「由布院温泉」が復活してきた。由布市の調査による「平成30年観光動態調査」では、18年に同市を訪れた観光客(日帰り+宿泊客)は442万1672人。対前年比114%となった。
「調査データの総数のうち約9割が由布院温泉なので、由布院への観光客数は約400万人となっています。熊本・大分地震で震度6弱を記録した直後は大きく落ち込みましたが、地震前よりも多くの方が来られるようになりました」
長年にわたり観光客と向き合う、由布市まちづくり観光局・事務局次長の生野敬嗣(しょうの・けいじ)氏は、こう説明する。
6月上旬、筆者は2年ぶりに大分県の由布院温泉を訪れた。以前とは観光客の実態が変わったが、平日にもかかわらず人出は多かった。ちなみに、前回の取材は地震から7カ月後だった。
今年6月18日にも新潟県と山形県を中心に最大震度6の地震が襲った。被災地が平穏な日々を取り戻すことを願いつつ、“災害列島”の日本では全国各地で他人事ではないだろう。
今回は、地震後の人気観光地・由布院の取り組みや課題を、参考事例として紹介したい。
外観を変えても「由布院らしさ」は変えない
「まだ完全とはいえませんが、新たなお客さまとともに、地震前からの常連客もご宿泊いただくようになりました」
山荘わらび野の支配人・高田陽平氏は、こう語る。1988年に同氏の両親が開業した7室の旅館は、後に10室に増やした。それが、地震で本館や離れの大半が大規模半壊や半壊。幸い、宿泊客は無事だったが、全面的な建て替えが必要となり長期休業を余儀なくされた。
由布院で育ち、一時は名古屋の大学に進学した高田氏だが、地元に戻り両親、弟の淳平氏と共に家業の旅館を切り盛りする。由布院の旅館は、ほとんどが家族経営だ。そうした「昔ながらの田舎」のような雰囲気と接客が観光客に人気となっている。
地震前から「由布院らしさ」の活動に取り組んできた高田氏は、同観光協会の常務理事も兼任している。由布院を現在の人気観光地に育て上げた中谷健太郎氏(亀の井別荘相談役、前会長)や溝口薫平氏(由布院玉の湯会長)らの薫陶も受けて活動する。
「地震の教訓から地盤を強化し、建物も木造からRC構造(鉄筋コンクリート造り)に変えました。でも自然景観に合うよう、外壁はスギの木目調にしています。これまでと同様、静けさと緑と空間を大切にしたいのです」(高田氏)
高田氏が口にした「静けさと緑と空間」は、由布院の“家訓”ともいえるもので、中谷氏や溝口氏が約半世紀前の欧州視察で学んだものだ。
従業員はやむなく解雇、5人が戻ってくれた
山荘わらび野の再開までには、厳しい現実もあった。被害額は3億円以上となり、しばらくは再開のメドが立たないなか、約15人いた従業員は解雇となった。
「建物の被害よりも、一緒に働いてきた仲間を解雇せざるを得なかったことは断腸の思いでした」と高田氏は振り返る。自身も生活のために飲食店やギャラリーでアルバイトしながら復活に向けて活動した。建設会社がほかの復旧工事で忙しく、思うように再建工事が進まず、もどかしい日が続いたという。
「常連客からの手紙や電話で『再開したら必ず行く』という言葉に励まされました」(同)
国内の有名観光地の中でも、特に由布院は横のつながりが強い。「ゆふいん音楽祭」などの名物イベント以外でも、大小の会合や勉強会で関係者が顔を合わせて情報を共有する。
今年2月の再開を前に、解雇した元従業員に声をかけた。そのうちの5人が戻ってくれたという。新しく採用した従業員を含めて「わらび野流のおもてなし」を行う。
約3500坪の広大な敷地に、客室は13室。全室に専用風呂とキッチンが備わっている。部屋は4タイプあり、「スタイリッシュスイート」や「メゾネットラグジュアリースイート」などタイプによって設えが違う。食事は部屋食からレストラン棟での提供に変え、豊後牛や魚介など地元色を打ち出した豪華なものだ。料理や接客、設備を充実させたため、「1人、1泊2食で3万8000~6万円」と、価格も改定した。
「静けさ」と「緑」と「空間」は守りたい
多額の借金を抱えても、高田氏は前向きだ。大学での名古屋生活で、「都会にいると息が詰まる。由布院こそが自分の居場所」の思いを強くしたという。
「由布院は晴れて見通しが良ければ、どこからでも由布岳が見える土地です。JR由布院駅前の喧騒を離れると、静けさと緑と空間が残る場所も多い。山荘わらび野も、周辺の山々になじんだ経営をしようと思います」(同)
前述した“家訓”の基となったエピソードが2つある。ひとつは大正時代にまとめられた「由布院温泉発展策」で、東京の日比谷公園や明治神宮などを設計した日本初の林学博士・本多静六氏が由布院に来て語った講演録をまとめたものだ。特に次の一節を大切にする。
「ドイツのバーデンバーデンのように、森林公園の中にあるような町づくりをするべきだ」
もうひとつが1971年に中谷氏、溝口氏、故・志手康二氏(当時「山のホテル・夢想園」社長)の若手旅館主人3人が視察した欧州貧乏旅行の成果だ。現地視察の際に、ドイツのバーデンヴァイラーという田舎町の小さなホテルの主人で、町会議員でもあったグラテボル氏が語った、次の言葉が町づくりの大きなヒントとなった。
「町に大事なのは『静けさ』と『緑』と『空間』。私たちは、この3つを大切に守ってきた。100年の年月をかけて、町のあるべき姿をみんなで考えて守ってきたのです」
この言葉に勇気づけられた3人を中心に昔ながらの風景を維持。志半ばで倒れた志手氏の遺志は、妻の淑子氏(山のホテル・夢想園会長)が継ぎ、現在は娘婿の志手史彦氏が社長として切り盛りする。世代が変わっても「思い」を共有するのが、当地ならではだ。
BCP(事業継続計画)として大切なこと
2011年3月11日の東日本大震災で被災地が壊滅的な被害を受けて以来、それ以前からあった「BCP」(事業継続計画)という言葉が、ビジネス現場に浸透した。
筆者も東日本大震災前からBCPの取材を行い、震災後は被災企業からBCPの成果や反省点を取材した。「重要データのバックアップは、複数の場所に保管する」「従業員の緊急電話網は、その順番通りにいかない」などは、当時多くの企業が教訓としたことだ。
災害以外に、テロや犯罪の危険性も無視できない。そのために「できるだけ積立金を準備する」もあり、「最大のBCPは、従業員が無事なこと」という被災企業の言葉も印象に残った。
過去2度の地震の時、由布院はどうしたか
由布院はこの半世紀に2度、地震による被害・風評被害に見舞われた。1975年の大分県中部地震と、2016年の熊本・大分地震だ。
1975年は、現在よりもずっと情報が乏しい時代だ。「九重レークサイドホテル倒壊」のニュースで、「木造建築の多い由布院の旅館は軒並み潰れた」と思いこんだ宿泊予約者からキャンセルが相次いだ。「由布院は元気です」をPRするために始めたのが、現在でも人気企画の「辻馬車」運行だ。前述の溝口氏も御者を務め、観光客の本音を聞いた。
2016年の地震では、逆に過度の情報を流さず、正確で必要な情報のみを発信した。すでに由布院の知名度は高く、テレビやインターネットでさまざまな情報が流れ、風評被害が広がる恐れもあったからだ。
年間観光客数が400万人に戻っても一段落とはいかない。外国人も含めた一見客も増え、公衆トイレの使用方法や、川へのゴミ捨て禁止などのマナーも伝えている。
「混雑しすぎて、かつての由布院とは違う」というマイナスイメージを払拭するために、近隣の名所を案内することもある。前出の生野氏は「先日は取材に同行して、庄内町阿蘇野の『名水の滝』に行きました。希望される方には、こうした場所も紹介したいです」と話す。
災害からの復活は、企業単独ではできない。観光地の場合は特に、地域との連携や「魅力の再発見」も大切だ。ふとした縁でテレビに放映され、商品の売上拡大につながった例もある。結局は「日頃からの誠実な付き合い」が欠かせないのだろう。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)