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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

クラシックオーケストラ楽員が持つ“特殊能力”…彼らは安くて美味い店を探り当てる

文=篠崎靖男/指揮者
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「Getty Images」より

「明日の地方公演ですが、主催者からお弁当が用意されています」

 クラシックオーケストラでは、リハーサルの前に事務局からいくつかの伝達事項を楽員に伝えられるのですが、このように最後にさりげなくアナウンスされると毎回、楽員は大喜びします。

 バブル期の頃、各市町村は競ってコンサートホールをつくっていました。ちょうど、ホールの音響設計レベルが上がっていたこともあり、現在の日本は、どこに行っても一定水準を超えた素晴らしいホールがある、世界でも珍しい国です。実際に、音楽の本場ドイツや、イギリスの地方都市では、「こんなひどいホールで演奏しているのか」と思ってしまう場所も少なくはなく、むしろ日本の地方都市のホールのような演奏会場があれば、オーケストラにとって大幸運といえるくらいです。

 ただ、日本の市町村のなかには、急に計画してつくったホールも多かったので、田んぼの真ん中にポツンとコンサートホールがあるような場所も少なくなく、そうでなくても町中から離れているホールが多いのです。そうすると、楽員が食事をする場所や、食事を購入できるコンビニエンスストアやスーパーマーケットが近くになかったりして、実際に弁当が必須という事情もありますが、何より弁当が支給されること自体が嬉しい出来事なのです。しかも、スタッフも合わせて80名くらいになるオーケストラのメンバー全員が同時に食事をするところを探すのも難しいので、楽屋でめいめい自由に食べてくれる弁当の存在は、オーケストラの地方公演を支えているといっても過言ではありません。

 これは、海外のオーケストラでも同じです。弁当の中身が安っぽいサンドイッチとポテトチップス、リンゴ1個だけだったのを見た時には、日本の素晴らしい楽屋弁当に慣れていた僕は驚いてしまいました。しかし、そんなランチボックスでも、みんな喜んで手に取っていく光景は、世界中どこでも同じです。

 日本では、その土地の名物が入った弁当もあり、みんな大喜びすることもあれば、時には「これはどうかなあ?」と首をかしげたくなるような弁当もあります。もちろん、ありがたく頂く気持ちは同じですが、主催者が依頼した業者が、朝から心を込めてつくっていることがよくわかる弁当に出合ったときには、演奏会自体がとても良い雰囲気で進んでいくように思うのです。

 遠くから演奏にやってきてくれた楽員をもてなしたいという主催者の気持ちと、依頼された業者の地元の文化に対する理解があって出来上がる弁当だからかもしれません。たかが弁当なのですが、音楽家は当日にやってきてリハーサルと演奏会をして、さっと帰っていくわけで、ほとんどの時間は演奏と準備に神経が取られているので、唯一、ホールからのもてなしを感じるのは弁当を通じてのみ、となってしまうこともあるからです。

オーケストラ楽員が持つ意外な“特殊能力”

 そんなオーケストラの地方公演では、日帰りができない遠方の場合は宿泊となります。そんな時に、楽員は音楽以外でもすごい能力を発揮します。それは、軽く飲みながら、地元の美味いものを安く食べられる店を探し出す能力で、指揮者はまったくかないません。大体、オーケストラの中に数名の“鼻が利く”楽員がいて、彼らについていきさえすれば、「こんな場所にこんな美味いものが!」と驚くようなところに連れていってくれます。

「駅から近からず遠からず。細い路地にある小さなお店で、オヤジがひとりでやっているから良い店のはずだ」などと言われながら一緒に歩いていくのですが、まず間違いはありません。しかも、70名くらいいるオーケストラ楽員のなかには、その土地に今まで訪れたことがあるメンバーも1人か2人は必ずいるので、そんな時には、そのメンバーの後ろにぞろぞろとついていくことになります。

 また、クラシック歌手も食に精通していることが多いです。歌手には“食いしん坊”な人が多いということもありますが、たとえばオペラ公演の場合など長期間滞在となることが要因です。歌手は出番が終わってしまえばやることがありません。最初の数日間はいいものの、だんだん暇になってくるので3日目くらいから「あそこで食べたラーメンが美味かった」とか、「あそこの手羽先は有名だけど、以前よりも味が落ちたよね」などと言い始めるのです。

 しかし「あそこのインドカレーは旨かった」「韓国料理店で良いところを見つけた」と言う歌手はほとんどいないのです。逆に、こちらからそんな話をしたところで、行く歌手はいないでしょう。辛い食べ物や刺激物は、歌手の楽器でもある声帯と粘膜を傷めてしまうためです。パイナップルやメロンなども声帯を荒らしてしまうので食べない歌手が多いですし、空気の乾燥も声帯の天敵なので、歌手の楽屋には加湿器が欠かせません。舞台の上でも、スタッフが大きな霧吹き機を持って湿度を保っています。

 特に喉に良くないといわれているのは冷たい食べ物で、声帯の周りの筋肉を固くしてしまうそうです。寒い場所で運動すると、筋肉が固くなるために動きが鈍くなったり、怪我をしやすくなるのと同じです。有名なウィーン少年合唱団の子供たちは、大好きなアイスクリームを厳禁されていると聞いたこともあります。

 さて、ステージ上では派手に見えるオーケストラの楽員ですが、ホールの総練習を終えて、演奏会までの90分程度の休憩時間に、弁当を食べ、服を着替え、不安な場所を練習したり、本番直前調整をしたり、本当に大忙しです。指揮者やソリストなどはそれに加えて、打ち合わせや主催者の方々への対応をする時間も加わり、弁当のおかずがハンバーグだかサバの煮つけだかまったくわからないまま、かきこむことも少なくありません。

 そんな日本の弁当ですが、たくさんのおかずとごはんがバランス良く配置され、僕は世界一のランチボックスだと思います。持ち運びが簡単な小さな箱に「フルコースが入った」日本の弁当は、今ではフランスをはじめ世界の国々で「Bento」と呼ばれ、「Sushi」に次ぐ日本の食文化として、大人気になってきているのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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