日本一の究極の梅酒の秘密…超前衛的な酒造会社、積極的すぎる行動連発で売上25倍
日本酒のリニューアルと並行して女性目線の「カクテル梅酒」を開発
法政大学大学院で機械工学を学んだ中野氏は、新卒で宝酒造に入社して酒づくりと酒類販売の基礎を学んだ。家業である中野BCに入社した05年には、すでに日本酒市場の縮小が続いていた。翌年から杜氏(酒造りの最高責任者)を兼務し、日本酒の品質改良を担った。
「『紙パックの日本酒』に代表される大量生産の日本酒ではなく、『昔ながらの手仕込みで当社独自の味をつくらないと生き残れない』と、社長だった父に直訴しました」(同氏)
これが受け入れられ、中野氏は日本酒の開発に取り組んだ。二代目社長で現会長の父、中野幸生氏は進取の気性に富んだ人物で、87年に全国初となる「社員蔵人制」を導入しており、その制度で配属された人材も育っていた。蔵人とは、杜氏のもとで酒造りに携わる職人のことだ。同年に新卒入社した社員蔵人には、全国新酒鑑評会で7度の金賞に輝いた但馬流の名杜氏・瀧野臣喜氏の下で13年修業した人もいた。試行錯誤の末に完成したのが、従来の銘柄を完全リニューアルした純米酒「紀伊国屋文左衛門」だ。
だが中野氏は、同時並行して新たな梅酒づくりにも取り組んでいた。幸生氏は地元経済団体の要職を兼任しており、中野氏が実務全般の陣頭指揮を取った。同時期の06年、梅酒杜氏に就いたのが製造部長兼梅酒杜氏の山本佳昭氏だ。同氏は梅酒の製造部門に異動した当時からこだわりのある梅酒をめざし、上司だった前任者を説得して製造工程を変えてきた。
この間に「消費者の健康志向」という追い風も吹く。宝酒造時代に先輩女性の有能さを目の当たりにしてきた中野氏は、家業でも女性活用をめざして社内プロジェクトへの女性社員参加を増やし、09年に女性だけのマーケティング部を発足させた。そのきっかけは社内会議だった。
「梅酒の商品開発会議で『この商品パッケージはイマイチじゃないか?』などと発言するのは、50歳以上の昔ながらの営業手法に染まった男性たちだったのです。今後の梅酒の顧客ターゲットを『女性』に焦点を合わせていたので、訴求する側も女性中心に変えました」(同)
時期は前後するが、山本氏が企画した本格梅酒の「紀州梅酒 紅南高」は07年に梅酒コンテストで日本一となり、さまざまなシーンで気軽に飲める「カクテル梅酒」シリーズも大ヒットした。本格梅酒は梅・糖類・酒類のみでつくり、添加物を入れない昔ながらの梅酒で、カクテル梅酒とは、梅酒に果実などを加えたお酒だ。カクテル梅酒の開発時には「そんなものは梅酒ではない」という反発もあったが、それを押し切って発売した。
88年入社後、15年にわたり清涼飲料のブレンドなど大手の下請けを担当した山本氏は、こう話す。
「まずは梅酒を飲んでもらわなければ意味がないので、カクテル梅酒もありだなと思いました」
こうした世代交代もあったから、中野BCは時流に乗れたのだろう。