由布院、屈指の人気温泉を「つくった」90年の裏歴史…3人の「うるさい立役者」の戦い
最初の2年間は、当時由布院温泉観光協会会長だった私も辻馬車の御者をしました。御者をしながら、乗車したお客さまに由布院について伺うと、宿泊や料理の感想を本音で話してくださいました。さりげなく宿泊された旅館や飲食店の名前も聞き出し、おほめの言葉や苦情の声を各施設に伝えて由布院全体の質向上に努めました。
中谷 1975年の大分県中部地震、2016年の熊本地震という2度の大地震後も由布院を支えてくださる方がいます。昔からのお得意さまで由布院にゆっくり滞在し、周辺を散策してくださる方、この土地を気に入って何度も来られる方、なかには転入して町づくりに関わる人もいます。親戚の延長という意味で「ゆふいん親類クラブ」という活動もしましたが、「地者(じもの)」も「他所者(よそもの)」も一体化しつつあります。
ただ、町づくりの視点で弱いのは、散歩空間としての散策道路が少ないこと。これは本多博士の「発展策」にもあった提言ですが、民間の力ではできないので行政の責任です。近くの日出生台演習場を米軍や自衛隊が使うのに合わせて、行政が周辺の道路を整備したことはありますが、人が歩いて「いいなあ」と思う散策道路が少ないのは残念です。
「由布院が由布院であり続けるため」に大切なこと
――十数年前の最初の取材時に、中谷さんが話された「由布院は女性的な町なので、他からお婿さん(外部の人や業者)が来るのは大歓迎。でも由布院には『由布院温泉発展策』や『潤いのある町づくり条例』など家訓のようなものがあるので、それは守っていただきたい」との言葉が、町づくりの骨格だと感じています。
中谷 いま懸念しているのは、嫁の実家の家訓が揺らいでくると「俺が婿じゃ」と声高に主張する人が出てくることです。由布院には星野リゾートの進出が計画されています。生活文化には、「土から生えてくるもの」「風に乗ってくるもの」がある。由布院にある個人経営の旅館は土地に根差した「土」ですが、各地に施設を展開する星野リゾートは「風」でしょう。
しかし土型、風型を両立させないと、たとえば料理などは成立しません。旅館の料理長が中心となり、由布院全体の料理のレベルアップを図った「ゆふいん料理研究会」や「風の食卓運動」は風に乗ってきたもの(各地の料理や研鑽を積んだ料理人)を由布院流にしようとしています。ただし、風土が文化になるには100年ぐらいかかるのではないでしょうか。
――最後に、「由布院がこれからも由布院であり続けるために」、何が大切かを教えてください。
溝口 「農村風景をどれだけ守り続けるか」でしょうね。農村の風景が美しい土地は癒されますし、由布院を訪れる人が求めるのは「懐かしさ」なのです。それを維持すれば「変わらないのも文化」という欧州の田舎町のようになります。また、由布院は人と人が「出会う機会」と「場所」を数多くつくってきました。映画祭や音楽祭などのイベントもそうですが、宿泊客以外の方に旅館のお風呂やレストランを開放したのも早かったのです。
中谷 地形的に由布院は絵に描いたようにきれいな盆地ですから、いつも山の向こうから何かが来る。来るまでは正体がわからないけれど、その何かが――たとえば塩や薬も――来ないと生きていけなかった。そして、歴史的には行政から見捨てられた土地でした。300年にわたり、隠れキリシタンの土地で、江戸時代は延岡藩(現宮崎県)の飛び地でした。制度的に藩主が支配しない存在だったため、「体制に異議あり」という人も抑え込む風土がなく、結果的に開放的な土地柄となり、独自の文化が育まれたと思います。
地域活性化には「外部」との出会いは大切で、時に意見の対立もあります。都会なら、対立した人と関わらなくても暮らしていけますが、田舎はそうはいきません。旅館の設備が壊れた時に修理できるのが、その人しかいなかったりする。だから、別の機会に仲直りもしてきました。真剣な議論や対立も信頼関係を構築する道だと思います。
――ありがとうございました。
(構成=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)