【逆転するPR戦略:脱マスコミ化?】コミュニケーションの二極化と消費者ファーストの実践
「超PR」と銘打っているこのコラムにふさわしく、久しぶりにPRについて真正面から書いてみる。
日本で“戦略的なPR”が注目され始めたのは、今から10~15年前の2003~07年頃だ。それまでPRといえば、「リリース配信~パブリシティ獲得活動」という地味でコツコツ続ける仕事で、日本の広告宣伝業界においては目立たない存在だった。PR業の先輩方からは「それ以前から日本にPRは歴然と存在したぞ」と叱られそうだが、実際に一般的にはそれほど知られていなかった。
それが05年頃になるとインターネット普及の勢いから「情報過剰時代」といわれるようになり、「これまでのテレビコマーシャル(TVCM)中心の広告モデルが通用しづらい時代に入ってきたな」と業界では皆が実感し始めていた。一方で、TVCMへの反響が鈍っているのに、テレビ番組内で取り上げられると、翌日にその商品が売り切れる事態が繰り返し起こっていた。その象徴が『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)であり、『発掘!あるある大事典』(フジテレビ系)だった。
同じ頃、00年代の小泉政権下では、メディア、特にテレビを使った争点づくりが非常に巧みに行われ、いわゆる「劇場型政治」が展開された。郵政民営化が争点になった衆議院選挙は05年のことだ。これもまた、典型的なPRの成功例だった。
08年にリーマンショックが起こり、外資系企業を中心に宣伝広告費が大きく削減された。これによって、出稿費の負担がないPRへの需要はさらに高まり、『戦略PR 空気をつくる。世論で売る。』(本田哲也/アスキー・メディアワークス/09年)のヒットへとつながっていくのだ。かくしてPRは、従来の「広告だけ」ではない、新しい戦法として注目を集めるようになった。
ただ、その実態はテレビ中心のお茶の間扇動型PRだった。依然としてコミュニケーションの構造は、一極から不特定多数に情報を伝えるマス・コミュニケーション構造のまま変わっていなかった。構造はそのままに、話法としてPRが取り入れられたといっていい。
企業(商品やサービス)の「物語」を伝える方法として広告宣伝という話法はよく知られていた。広告という語り部は、雄弁で華やかでシンプルだった。一方でPRは、控え目で地味で面倒な奴だと思われていた。だから、あまり人気がなかった。ところが、うまく使えば相当おもしろいやつだし、説得力もあることが広く理解され始めたのだ。
さて、あれから10年近くがたった。果たして、PRは進化しているだろうか。そして、これからPRはどんな役割を果たせるだろうか。今回と次回の2回に分けて、企業の物語をつくり、語るPRパーソンの仕事について考えてみたい。