チャイコフスキー、謎だらけの人生…ある未亡人から無償で毎年1500万円寄贈の裏側
チャイコフスキーは、ロシアを代表する作曲家というだけでなく、バレエ『白鳥の湖』をはじめとしたクラシック界の大ヒットメーカーです。チャイコフスキーがいなかったとしたら、間違いなくクラシック愛好家は今より少なかったと思います。
何を隠そう、僕もチャイコフスキーはベートーヴェンやモーツァルトなどと同じく大好きです。日本においてテレビ番組やコマーシャルで使われている曲は、ダントツにチャイコフスキーが多いでしょう。たとえば、ベートーヴェンなどは『第九』の有名な合唱部分以外、使われることは少ないようです。
そんなチャイコフスキーの最高傑作は何かといえば、僕は遺作になった交響曲第6番『悲愴』だと思います。こんな悲しいタイトルを付けたチャイコフスキーですが、当時の保守的なロシア正教の影響が強いロシアの中では、彼のプライベートは複雑なものでした。実は、彼は同性愛者だったのです。今の時代ならば、LGBTであるとカミングアウトできたかもしれませんが、19世紀後半は、まだまだそんな時代ではありませんでした。
25歳の頃、彼の熱烈な心棒者だった16歳の女性に押し切られるかたちで結婚したのですが、彼女の思いに応えることはできず、自殺未遂を図るほど苦しみ抜き、彼女から離れたあとは秘められた私生活を送っていました。
その後、チャイコフスキーは、作曲家としても最盛期であった1893年に急死してしまいます。死因については、モーツァルトと同じく、のちの我々を巻き込むほどの大ミステリーとなりました。というのは、亡くなる直前に交響曲第6番『悲愴』の初演を指揮した際の彼は健康そのものだったからです。しかも通常は、初演後のあとには自信をなくしてふさぎ込むことが多かったにもかかわらず、『悲愴』の際は珍しく、ものすごく上機嫌だったのです。どう考えても、それから9日後に亡くなってしまったのはおかしな話です。
没後、まことしやかに語られていたのは、ある貴族の男性と関係があったのではないかという噂でした。当時のモラルの中では許されるものではなく、しかも相手は貴族です。急遽、秘密法廷が行われて死刑が決まったものの、当時はロシアの大作曲家となっていたチャイコフスキーを処刑できるはずはなく、彼の名誉を重んじて、ヒ素を飲んで自殺するように促したとの情報が流れたのです。
しかしながら実際の死因は、当時ロシアで流行していたコレラでした。初演の数日後、上機嫌で観劇をしたチャイコフスキーは、その後、友人と会食をしている際に、周りが止めるのを聞かずに生水を飲んだことがコレラに感染した原因だといわれています。翌日の11月2日に発症し、4日後にはあっけなく死んでしまいました。
19世紀は、世界的にコレラが大流行した時代でした。1883年にドイツのコッホ博士がコレラ菌を発見するまで原因はわからず、治療法すらもない未知の病気でした。日本でも開国とともに感染が始まり、それが外国人の持ち込んだ未知の病ということで、外国人排斥運動(攘夷論)の一因になったともいわれています。
1877年の西南戦争では戦地で大流行。その後、帰還兵によって全国に広まることになったそうです。その16年後のチャイコフスキーが亡くなった頃には、すでにコレラ菌は発見されていたわけで、友人の忠告に素直に従ってさえすれば、チャイコフスキーは、その後も素晴らしい交響曲、バレエ音楽、オペラをたくさん作曲してくれたのにと、残念に思います。
チャイコフスキー、ある未亡人から毎年1500万円受け取っていた
さて、このチャイコフスキーですが、彼が尊敬してやまない作曲家であるモーツァルトと同じように毒殺説が出てくるのは、興味深いです。しかも、2人の共通点はこれだけではありません。チャイコフスキーもモーツァルトも、素晴らしい音楽を作曲するのはよいとして、問題はお金をどんどん無駄遣いしてしまうことでした。つまりは浪費家だったのです。
チャイコフスキーは、音楽学校を卒業した翌年には音楽講師の仕事を得ていたので、ほかの若い作曲家のように極貧に苦しむということではなかったようですが、少しでもお金ができると、大好きなイタリアに行って散財したり、夏も優雅に別荘で暮らしたりしてしまったようです。しかも、そんな彼に大きな“金づる”まで現れたのです。
その金づるの名前は、ナジェジダ・フォン・メック。鉄道で大儲けした旦那が亡くなったのち、受け継いだ莫大な遺産を、心酔しているチャイコフスキーにつぎ込んだ音楽愛好家です。それは1877年から14年間も続くことになったのですが、なんと6000ルーブル(現在の貨幣価値に直すと約1500万円<諸説あり>)にもなる大金を毎年、無償で送ってくれたのです。
これによりチャイコフスキーは、大事な作曲の時間を削って、あくせく教鞭をふるって生活費を稼ぐ必要はなくなったのです。しかし、メック夫人と結んだ約束事には、お金の額だけでなく、とても不思議な取り決めがありました。
通常、大スポンサーがお気に入りの作曲家や演奏家に援助をする場合には、本人と食事をしたり、音楽の話を自分だけのためにしてもらうといったメリットがあります。ところがチャイコフスキーは、14年間にメック夫人との間で1200通もの手紙のやり取りするほど強い友情関係を持ち、傑作交響曲第4番を彼女に献呈したにもかかわらず、実際には一度も会うことはなかったのです。実は、それが約束事だったのです。メック夫人は、チャイコフスキーに見つからないように彼の演奏会に出かけ、一度も会うことなしに毎年、1500万円を14年間も送り続けていたのです。
そんなメック夫人ですが、やはり当然のことながら年々、チャイコフスキーに会いたくなっていきました。しかし、チャイコフスキーには若き日の、愛に応えられなかった妻との苦しい思い出がよぎっていたのでしょうか。深い親愛の情を感じながら、女性であるメック夫人には頑なに会うことはありませんでした。
そんなある日のこと、彼が馬車で出かける際に、彼女と一度だけ遭遇したことがあります。軽く会釈したチャイコフスキーでしたが、そのショックで彼は食べることも眠ることもできなくなり、苦しみ抜いたあげく、うつ病になってしまいます。
ところで、なぜ偶然にも、2人が馬車ですれ違ってしまったのでしょうか。実はその時、チャイコフスキーはメック夫人所有の領地にある家に住まわせてもらっていました。そこは常人には理解しづらいところですが、メック夫人とチャイコフスキーは、お互いの家を眺めながら、会うことなく手紙をせっせと送り合っていたのです。まるで19世紀のロシア小説のような話です。
(文=篠崎靖男/指揮者)