プロ野球審判員はなんでも知っている…1試合で数球は判定ミス、試合中に監督が采配を相談
野球人口の底辺を広げて、改革したい
「MLBの審判員になれなかったのは今でも悔しい」と語る、平林氏の経歴も紹介しよう。
兵庫県生まれで、育ったのは千葉県我孫子市だ。中学2年で選手としての限界を悟るが、好きな野球に関わりたい気持ちは強く、「一緒に試合に関われる」審判員に行き着いたという。国学院大学在学中に、プロ野球審判員とも交流のある「神宮外苑審判協会」(現外苑審判倶楽部)を訪ね、本格的に審判員としての活動を始め、試合経験を積んだ。卒業後、セ・パ両リーグの審判テストを受けたが、裸眼視力が規程に満たず不合格となる。
そこから渡米して審判育成の専門学校で学び、日本人初の米国野球審判員となる。その経験が認められてパ・リーグにスカウトされ、1994~2002年まで審判員を務めた。98年には鳴り物入りで入団した松坂大輔投手(当時西武)のデビュー戦の球審も担当した。その後、レベルアップをめざして自ら退局。再渡米してマイナーリーグの1Aから2A、3Aとステップアップし、MLBのオープン戦の球審も務めたが、メジャー昇格寸前で解雇された。だが、再び日本球界がその知見を評価し、NPBの審判技術委員となった “逆輸入型”審判だ。
そんな平林氏が気になるのは、国内人口減少の数倍の早さで進む「競技人口の減少」だ。
「少年野球では指導者の勝利至上主義も問題です。試合に出られなかったり、厳しい指導が嫌だったりする子は辞めてしまう。少年たちには、野球の楽しさを伝えてほしい。また、サッカーに比べて『プロとアマの壁』があり、自由に交流できない。これは審判も同じで、我々プロ野球に属する審判員は、アマチュア野球の審判員をすることはできません」(同)
そのための改革活動も行う一方、審判員に興味を持つ学生にはこんなアドバイスを送る。
「高校3年生や大学4年生は、卒業後に競技を続ける選手以外は別の道を模索します。野球が好きなら、草野球を続けながら審判員をする手もあります。アマチュア野球の審判なら、ほかに仕事を持ちながら続けられますし、審判員同士はプロ・アマ交流も盛んです」(同)
スポーツ団体も一般企業も、チーム(会社)同士は競い合うが、業界全体では共存共栄しないと、その市場が縮小して、結果的に活躍の機会を失うことになる。近江商人の三原則ではないが、どんな活動も「自分よし、相手よし、世間よし」なのだ。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)