オーケストラ指揮者、観客から見えない仕事と甚大なストレス…胃薬を常備も当たり前?
父親に連れられてオーケストラを初めて聴きに来た女の子が、コンサートの後、興奮した面持ちで感想を話します。
「パパ、すごく楽しかったよ。テレビで見たことがあるヴァイオリンがたくさんあったし、立って弾かなくてはいけないくらい大きな楽器もあったよ。フルートの音も素敵だったし、トランペットはすごく大きな音だったね」
クラシック音楽好きな父親が、うんうんと嬉しそうに娘の言葉に耳を傾けます。
「でも、1人だけ変な人がいたよ。オーケストラはみんな揃っていて、観客も待たされているのに、遅刻して出てきただけでなく、厚かましくもお辞儀なんかして失礼な人だと思ったわ。でも意外なことに、みんなその人に拍手をするの。もちろん、私はしなかったわ。しかも楽器を弾くわけでもなく、舞台の真ん中に置かれた台の上に立って腕をブンブン振り回すだけ。オーケストラの演奏の邪魔にならないかとハラハラしたわ。それだけじゃなく観客にお尻を向けているのよ。それなのに演奏が終わると、その人にみんな大拍手するの。あの人は何なの?」
父親はこう答えます。
「あの人は、指揮者というんだよ。今日の指揮者、僕も大好きなんだ」
女の子は、ますますわけがわからなくなってしまいました。
確かに、指揮者は何ひとつ音を出さないにもかかわらず、大拍手を一身に受ける存在です。東京、大阪、ロンドンのような、たくさんのオーケストラがひしめき合っている大都会は別として、一般的には一つの街に一つのオーケストラしかないので、コンサートに通っている観客にとっては、プログラムは違っても毎回同じメンバーの顔が揃ったオーケストラを聴くことになります。そこで違いを出す要素はソリストと指揮者となるため、この2人は特別な存在となります。
もちろん、各オーケストラには専属の指揮者である常任指揮者、または音楽監督がいます。しかし、いくら人気がある指揮者でも、毎回の登場ともなれば観客は飽きてしまいます。そんなわけで、常任指揮者や音楽監督は年間の3分の1程度のコンサートを指揮するのが世界的スタンダードです。では、残りの3分の2を誰が埋めるのかといえば、客演指揮者です。
自分のオーケストラを持っている客演指揮者も、自分のオーケストラを3分の1しか指揮できないので、せっせと他のオーケストラに客演するわけです。もちろん、どこのオーケストラにも所属していない指揮者も多く、なかには専属の指揮者に求められる音楽以外の仕事をするのを嫌って、自由な客演指揮者として世界を飛び回っている著名指揮者も結構いるのです。
指揮者とオーケストラ、”最初の3分間”のさぐり合い
ところで、「指揮者の良さは、リハーサルの最初の3分間で決まる」という話は、世界中の楽員からよく聞く話です。指揮者にとって、初めて指揮をするオーケストラということは、同様にオーケストラからしてみても初めて仕事をする指揮者です。良くても悪くても、コンサートまでは、その指揮者とお付き合いしなくてはなりません。
何十年にもわたって毎年のように客演する指揮者の場合は、お互いに相手がどう出るかをよくわかっているので安心ですが、初めて招く指揮者の場合は、どんな指揮をして、どんなリハーサルをするのか、そして本番のコンサートはどうなのか、オーケストラにとっては未知数です。そこで、最初の3分間で今回の仕事が楽しいか、楽しくないかをオーケストラの楽員は予想するわけです。
一方、指揮者にとっても、この3分間はオーケストラが自分の指揮を信頼してついてきてくれるかどうかの試験のようなものです。しかし、運良く最初の3分間をクリアしたとしても、「リハーサルの効率が悪いなあ」「ソリストに合わせるのがうまくないなあ」などと不満を持たれることもあり、指揮者にとってはまだまだ試練が続きます。
これは本当に胃がキリキリする時間で、実を言いますと、僕は常にカバンの中に胃薬をしのばせています。日本を代表する指揮者である小澤征爾先生も、本番前に胃薬を買っているのを見たという話を楽員から聞いたこともあるので、胃痛に悩んでいる指揮者は少なくないのかもしれません。
演奏後の指揮者
演奏が終わると、指揮者は盛大な拍手を頂きますが、この拍手喝采は指揮者だけのためではなく、オーケストラも含めて称賛されているわけで、指揮者はオーケストラを代表してお辞儀をする役割もあります。実は、指揮者にとって、このお辞儀もそうですが、演奏後もまだまだ忙しい大変な仕事が待っているのです。
演奏が終わり、まずはオーケストラを立たせ、自分はお辞儀をして舞台裏へと去ります。そこで、お客の拍手が途切れないように気をつけながらステージに戻ってきて、大事なソロを吹いた楽員に合図を送り、立ってもらいます。実は、これはとても大事な作業です。演奏中は譜面台で隠れていた奏者を、観客にはっきりと見ていただき、「あの素晴らしいホルンのソロを吹いた奏者だ」と喝采を頂くためなのです。
万一、うっかりして、大事なソロを演奏した奏者の紹介を忘れてしまったとしたら、大変なことになります。奏者にも失礼ですし、奏者に拍手を贈りたい観客もがっかりするでしょう。場合によっては、その楽員から「あの指揮者は私の演奏が気に食わなかったのか?」と深読みされる恐れもあります。いくら演奏が上手くいったとしても、指揮者の最後の大きな落とし穴ともなるのです。
実は、僕も何度か失敗をしたことがあります。帰りの道中で「あ!あの人に立ってもらうのを忘れてしまった!」と、頭を抱え込んでしまうのです。時には舞台裏に戻った時に、ステージマネージャーが気を遣って、「クラリネットに立ってもらうのを忘れていますよ」と教えてくれることもあります。そこで慌ててステージに戻って、満面の笑みで立ってもらいますが、どちらにしても遅きに失しており、心の中では顔面蒼白です。
余談ですが、舞台裏でステージマネージャーから、「もう一度だけカーテンコールをして、その次にアンコールを演奏しましょう」と言われることもあります。実は、観客席が直接見えない舞台裏にいるにもかかわらず、ステージマネージャーは観客の空気感を読み取り、アンコールのタイミングまで的確に判断するのが不思議です。
そこでステージに戻り、コンサートマスターに「次にやります」などと短い会話を交わし、一旦、舞台裏に引っ込み、差し出された水を一杯飲んだりしてから、アンコールの指揮へと向かいます。
「時間も押しているので、これでカーテンコールを最後にして、楽員をステージから引き揚げます」といったステージマネージャーからの大事な言付をコンサートマスターに伝えるのも、指揮者の仕事のひとつです。指揮者は、冒頭の女の子が疑問に思ったように、何も音を出しませんが、ステージを行ったり来たりするので、オーケストラに伝言もすることでも役立っているのです。
(文=篠崎靖男/指揮者)