オーケストラ、コンサートを取り仕切る“真の権力者”…楽員全員が一挙手一投足に注目
「良いコンサートでした。でも、トランペットの3名が遅刻していましたね」
ある演奏会のあと、スポンサーの大会社の社長から言われた言葉です。その日のメインプログラムは、19世紀末を代表する作曲家グスタフ・マーラーの代表作、交響曲第1番『巨人』。曲が始まって数分後、3名のトランペット奏者が目立たないように下を向きながら、見方によってはバツが悪い感じで舞台に出てきます。
この3名の奏者の名誉のために言っておきますと、別に遅刻したわけではなく、すべてマーラーの指示通りなのです。この交響曲は、マーラーが生まれ育ったチェコの田舎村の風景を音楽で描いているともいわれ、日の出時間の澄んだ空気の中、鳥の声が聞こえたり、村の中にある軍隊の朝の起床ラッパが遠くから聞こえてきたりする仕組みになっています。
実際に、マーラーの生まれ故郷には軍隊の駐屯地があり、毎日、軍楽隊の音楽が聞こえていたのです。そんなマーラーの音楽的原体験ともいえる起床ラッパの音を再現するのに、3名のトランペット奏者を舞台裏で演奏させることで、観客には遠くからトランペットが聞こえてくるように錯覚させるからくりなのです。
舞台裏で演奏した3名の奏者は、短いフレーズを吹いたら仕事が終わりとなるわけはなく、それから舞台に入ってきて交響曲の最後まで演奏します。そのためマーラーも、彼らが舞台裏で吹いてからステージに入ってきて、ゆっくりと椅子に座るくらいの時間の余裕を楽譜上で用意しています。
つまり、彼らの移動時間にはトランペットの出番はなく、慌ててステージに走り込んで着席する必要はないように、マーラーも配慮しているのです。しかし、演奏途中の奏者の前を通るわけにもいかないので、こそこそというか、まるで遅刻した奏者がバツが悪そうに入ってきた感じに見えてしまうのかもしれません。
本連載『クラシックオーケストラ、絶対に破ってはならない“不文律”…もし破ると背筋が凍る事態に』にも書きましたが、オーケストラの楽員が一番してはいけないことは遅刻です。まして、本番に遅れるなんて言語道断です。ひとつでも楽器が足りなければオーケストラは演奏できないので、ステージマネージャーは全員が舞台に乗っていることを確認するまでは、指揮者を舞台袖から舞台に出すことはできません。。指揮者が舞台に出ていかないということは、すなわちコンサートが始まらないということです。
几帳面な日本では、そんな経験はないのですが、海外では何回か、遅れた奏者を待ったことがあります。しかし大概は、管楽器奏者が演奏に必要なリードを楽屋に忘れたとか、弦楽器の弦が急に切れてしまったといった程度で、基本的に演奏家は時間を守ることに関しては、さまざまな職種のなかでもトップクラスだと思います。
会場を統率する“コンサートマスター”
ところで、舞台上のオーケストラの楽員が時間通りに舞台上に揃っていても、観客のなかには遅刻して来る方がいらっしゃいます。たとえば、仕事の関係で少し間に合わないにもかかわらず、それでも演奏会のチケットを買って聴きにきてくださるわけで、やはり大切なお客様です。曲の演奏中にはロビーで待っていただくことにはなりますが、短い曲であれば指揮者がお辞儀をしたり、オーケストラが拍手を受けたりしている間に、さっと入って次の曲から演奏を楽しんでいただけます。
しかし、問題は3つや4つの複数楽章で構成されている交響曲や協奏曲です。客席に入れるチャンスは楽章間しかありません。しかも時には、指揮者の判断で楽章間を休まず、すぐに次の楽章に続けてしまうこともあります。そのため、オーケストラ事務局はあらかじめ指揮者に遅れてきた観客を客席に誘導できるタイミングを確認して、扉ごとにいるロビースタッフに伝えるのです。
そうやって遅れてきた観客が無事にホールに入ってきても、薄暗く静まり返ったなかで自分の席を探しながら向かわれるわけですから、ほかの観客の鑑賞の妨げにならないように、オーケストラも演奏を再開せずに着席をお待ちします。
とはいえ、演奏を始める役割の指揮者は観客席に背中を向けているので、まったく様子が見えません。そんな時、客席内の一部始終を目視確認しているのは、実はコンサートマスターなのです。
オーケストラ楽員全員がコンサートマスターの動きに注目
オーケストラ・コンサートを鑑賞した経験がある方のなかには、特にコンサートの前半ですが、各楽章が終わるたびコンサートマスターが観客席を向いて、上品に微笑んでいる様子をご覧になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。観客には、「あのコンサートマスターは、こちらを笑顔で見てくれて素敵だなあ」と思われるかもしれませんが、実は遅刻してきた観客が椅子に座るのを見つめているのです。もちろん、2階席も3階席も確認したうえで指揮者に「もう大丈夫です」と目で合図を送り、指揮者は次の楽章の指揮を振り始めるのです。
コンサートマスターには、オーケストラ楽員全員の起立と着席をリードする役割もあります。曲が終わって指揮者がオーケストラに立つように指示すると、全員が起立します。これには観客に対してのお礼の気持ちが込められていますが、その後、指揮者は座る合図を出すこともなく、無責任にも舞台袖に引っ込んでゆきます。そこで楽員が何を見ているかといえば、コンサートマスターがいつ座るかなのです。コンサートマスターが座らないことには、みんな座れないのです。そもそも、指揮者が立つように指示しても、コンサートマスターが立たなければ誰も立てないことになっています。
いたって自然に見える、このコンサートマスターの一連の動きも、実は簡単でもないようです。まだ経験が浅い、若いコンサートマスターの場合、タイミングよく立てなかったり、座るタイミングが少しずれてオーケストラ全体が少しバラバラになることもあるからです。
なお、開演の際には、指揮者の登場に合わせてオーケストラ全員が起立することが一般的ですが、コンサートマスターは背後から歩いてくる指揮者の姿を見ることができません。そこで、指揮者が入ってくる靴音に耳を澄ませていたり、向かい側にいるチェロの首席奏者に合図を送ってもらったりと、そんなこともコンサートマスターの仕事の一環です。ただし、日本の場合は、指揮者が登場すると観客の皆さんは盛大に拍手をしてくださるので、拍手に合わせて立てばいいでしょう。
(文=篠崎靖男/指揮者)