ANA、過度な「国際線拡大」路線が“逆回転”し苦境…打倒JALに邁進した30年の歴史
本連載も14回目を数えたところで、全日本空輸(ANA)の直近30年の歴史を振り返り、全体の見通しをよくしたい。ANAは「⽇本航空(JAL)に追いつけ、追い越せ」のスローガンの下、福利厚生や整備費⽤など現場のコストを犠牲にしても達成すべき国際線⾄上主義が、経営陣のなかで定着していった。2010年以降はJALの経営破綻と⽻⽥空港の国際化により、「打倒JAL」「国際線拡大」の悲願達成に向け、全力でアクセルを踏み込んだ。しかし、想定外のコロナ禍でそれが逆回転し現在の窮状に陥ることになった。以下、主だった出来事を列挙しながら振り返る。
86年に国際線就航開始も、90年代まではJALの成田独占を崩せず受難の時期
ANAは1952年にヘリコプター2機から始まった純民間航空会社だ。⽇本の航空業界は戦後高度成長期に国により策定された規制に基づき、「国内線はANA、国際線はJAL」という時代が長く続いたが、1986年に規制が撤廃されANAが国際線が就航を始めた。これにより、同じ土俵に立ったANAは、国内線市場が頭打ちとなっていたことを克服する必要もあり、JALと国際線市場で争う方針を固めていった。
ただ、当時成田空港から就航していた国際線は、ナショナルフラッグキャリアとして君臨し続けてきたJALの独壇場であり、新参者のANAが入れる余地は限られていた。また、当時の成田の滑走路は1本しかなく、発着枠はニューヨークのJFKやロンドン・ヒースローと並んで、世界の航空会社が喉から手が出るほど欲しがるプラチナスロットであったことも参入を難しくしていた。
日米航空協定に基づき、成田など日本国内の空港を起点に自由にアジア内路線を設定できる権限(以遠権)が与えられていた米国系航空会社の存在も大きかった。特に、パンアメリカン航空の権益を引き継いだユナイテッドと、もともと太平洋路線に強く日本の航空業界にも大きな影響を与えてきたノースウエスト(現デルタ)のアジア内路線は、ソウル、上海、北京、香港、広州、シンガポール、バンコク、マニラといったアジアの主要都市に就航しており、こちらも発着枠を多く占めていた。
94年の関空開港では苦戦するも、99年のスターアライアンス加盟で好転
当時の成田空港には、JALと米系航空会社のジャンボジェットがずらりと並ぶという特異な光景があったわけだが、90年代のANAはこのような状況を打開するため、94年に開港した関西国際空港を拠点に国際線ネットワークを一気に拡大させることを狙った。JALや外資系航空会社が日本との間に直行便を飛ばしていない都市にも積極的に路線を開設するなど、果敢な攻めの路線戦略であったが、ビジネス需要が旺盛なのはやはり首都圏。ここからの旅客を国内線で関空に運び各地への直行便に乗り換えさせるというスキームは、当時の消費者には必ずしも受け入れられず、新規開設路線のうち多くが数年のうちに姿を消した。
また、関空自体も開港当初から巨額赤字を計上するなど、インバウンド需要が活況を呈するまで大不振であったことは記憶に新しい。
ANAにとっての好機は、99年の航空会社グループ「航空連合(スターアライアンス)」に日系航空会社として初めて加盟したことだった。これは近い関係にあった米ユナイテッド航空が創設メンバーだったことが大きく寄与した。ANAは自前の国際線網が弱かったため、多くの海外航空会社と共同運航が実現可能なアライアンスへの加盟は魅力的だった。
その頃のJALは自前主義がまだ強く、共同運航についても各国のフラッグキャリアを中心に個別提携に基づいて実施するものがほとんどであった。「この頃までのANAは国際線拡⼤という企業戦略の中で⾃社のポジショニングをわきまえていた」(航空アナリスト)。
2000年代は羽田の国際化などが段階的に進展
ただ、2000年代に入ると、01年の米国同時多発テロ、03年のイラク戦争、重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行など、不測の事態によって旅客需要は激減したが、人件費など緊急コスト削減策を実⾏することで、04年度には17年連続で赤字だった国際線で初の黒字化を達成した。
⼀⽅で、成⽥空港のB滑⾛路の供⽤開始や、02年の⽇韓サッカーワールドカップの共同開催をきっかけとして⽻⽥空港の国際化が段階的に進んだこと、⽶国系航空会社の経営難によりアライアンスを通じた共同運航を⼀層推進する流れが強まったことが追い⾵となり、国際線の枠が増加した。
ANAは前述のように共同運航を重視していたこともあり、この流れに⾒事に乗った。成田からアジア各地への新規路線を開設し、既存路線についても増便などで体制強化を図った。これらの便には共同運航先であるユナイテッド航空の便名も付与した。米国でのユナイテッド航空の販売力は強大であり、ユナイテッドが獲得してきた北米―アジア間の顧客を成田でトランジットさせることで、自社が運航する共同運航便の席を埋めることができる。
ANAとしては新規開設路線の収益ベースを確保できるし、ユナイテッドとしてもサービスレベルを落とすことなく、収益性に難のあった以遠権路線をカットできるという点で双方にとって有益な取り組みであった。
2010年のJALの経営破綻と羽田の国際線増枠で野望に邁進
国際線拡大という大方針を順調に推し進めているかに見えたANAだが、「目の上のたんこぶ」のJALが依然として成田の発着枠を多く占め、特に長距離路線ではプレゼンスで大いに水をあけられる状況に変わりはなかった。それを一気に変えたのが、10年のJALの経営破綻と羽田の国際線発着枠増枠である。
08年のリーマンショックのあおりを受けて経営破綻したJALは、民主党政権の下で公的支援を受けることになったが、「当時のANA経営陣の最優先事項は羽田の増枠分をがっちり自社のものにすることと、JALの規制をできるかぎり長引かせることだった」(当時をよく知る自民党議員)。このため、ANAは永田町と霞が関になりふり構わぬロビー活動を展開し、羽田の増枠分の大幅な傾斜配分に成功した。また、経営破綻からわずか約2年で再上場を果たしたJALに、16年度まで経営が国の監視下に置かれる「8・10ペーパー」による“足かせをはめる”ことも忘れなかった。
天敵のJALが沈み、自由にできる国際線発着枠が一気に増えたことで、ANA経営陣は勢いづいた。その象徴が12年2月に発表した持ち株会社化への移行である。これまでの連載でANAホールディングス(HD)発足後、パイロットの数は据え置くにも関わらず疲労が蓄積するレベルで労働を強化し、⼤量採⽤したCA(客室乗務員)の労働環境や福利厚⽣の整備がまったく追いついていないなど、地に足の付いていない国際線拡大路線を突っ走ってきたことは繰り返し指摘してきた。
「意志決定の迅速化というと聞こえはいいが、HD化によりHDの経営陣とそれ以外の下々という私物化の構図が鮮明になった。組合として不満を言おうにも事業会社が壁となりHDには届かない構造になったため、さらに経営陣のやりたい放題になった」(ANAの古参社員)
13年に東京五輪の誘致が決まり、インバウンド誘致の推進という国策にも後押しされたANAは、JALという競合が思うように事業拡大できない中でこの世の春を謳歌することになり、遠慮なく国際線拡大を進めることになった。最終的なもうけを示す純利益が、HD化した14年3月期の188億円からコロナ禍前の19年3月期は1107億円と5倍以上に伸びたことからも、それがうかがえる。
一方で「強いJALが帰ってくる」との懸念も強く、現場ではコストカットの口実に使われたというから、「8・10ペーパーの効力が切れる17年3月までにできるだけ差を開けておきたいという思惑もあり、がむしゃらにこの時期に走った面はある」(先の古参社員)。
そのがむしゃらがコロナ禍で行き詰まり、21年3月期通期では一転、4046億円の過去最大の純損失を計上し、有利子負債は1兆6554億円に膨らんだが、懸念材料はもともとあった。20年3月末時点で8428億円の有利子負債を抱えており、「当時の⾃⼰資本⽐率は41.4%と安全圏だったとはいえるが、予期せぬことが起きれば⼀気にひっくり返る危険は常にあった」(投資ファンド幹部)。
その「予期せぬこと」がコロナ禍だったというわけだが、国際線は疫病や戦争などのリスクがつきまとう上、いざそうなったら一気にそれまでの投資や溜め込んだ貯金を吐き出さねばならなくなる。その高リスク事業にこの10年をかけてきたANAは現在、その戦後処理に追われているというわけだ。
さて、ここまでやや駆け足でANAが歩んだこの30年間を見てきたが、次回からここで振り返った内容を元にして、実際にANAHDの⼤橋洋治相談役を筆頭として、伊東信⼀郎会⻑、⽚野坂真哉社⻑以下、歴代経営陣がどのように舵を取ったかを追っていく。人件費などコスト削減を従業員に飲ませるための御用組合化のプロセスや、整備コストの削減がどのように行われてきたかなど、これまで主要メディアでは語られなかった部分をご紹介する。