ベートーヴェン『運命』、緊急車両のサイレンとの共通点…人間の“不快感”を巧みに利用
最近、救急車のサイレンが鳴っても、すぐに路肩に寄せるクルマが減ったように思います。警視庁によると昨年、全国で緊急車両と一般車の交通事故は34件起きており、うち20件が交差点での事故だったそうです。過去10年間をみても、年30~40件前後、ほぼ横ばいで、死亡事故まで発生しています。
道路交通法では、緊急車両がサイレンを鳴らしながら近づいてきた際には、原則として自動車は道路の左端に一時停止して道を譲らなくてはならないと規定しています。とはいえ、運転中に大きな音でラジオを聴いているドライバーもいますし、窓を閉め切った状態の車内では、外部からの高音域の音は聞こえにくいという問題もあるそうです。反対に、交差点を渡ろうとしている歩行者にとっては高音域のほうが聞こえやすいそうで、サイレンひとつとっても、なかなか難しい事情があります。
緊急車両は一刻を争って走行しています。たとえば、救急車のたった数分の遅れであっても、搬送されている患者の命の明暗を分ける場合もあるでしょう。そんな時に、もし交差点で接触事故が起こってしまった場合には、尊い命が奪われてしまうこともあるかもしれません。
そんななか、最近の緊急車両が交差点に差し掛かったりした際のサイレンが、とても耳障りな音に変わることに気づいた方もいるのではないでしょうか。
これは、回転灯製造会社のパトライトが、2014年に新しく開発したサイレンです。同社はパトカーのライト、すなわち社名にもなっている「パトライト」だけでなく、サイレン音まで開発販売し、戦後間もない1947年に創業して以来、日本はもちろん世界でもリーディングカンパニーとして発展を遂げている大阪の会社です。
開発のきっかけは、各地の消防隊員から「窓を閉め切ったクルマのドライバーには、サイレン音を気づかれにくい」という話を聞いたことでした。従来のサイレンの周波数は780ヘルツですが、機器にあるボタン「交差点」を押すことにより、1326ヘルツの音がかぶさり、とても不快な和音、不協和音となって、交差点付近にいるドライバーや歩行者の注意を引きつける仕組みだそうです。「渋滞通過」ボタンもあり、パトライトが公開しているYouTubeで聞くことができます
(https://www.youtube.com/watch?v=CA2Kz57TSTk)。
不快なものを嗜好する理由
不快な音といえば、人間にはさまざまな苦手な音があるそうですが、なぜ不快に感じるのか、正確な理由はわかっていないものもあるそうです。その代表的なものは、黒板をチョークなどで引っかいたときに発する高い音があります。僕などは、今、この文章に書いているだけで、背筋がぞくっとするくらい苦手です。この音は、サルが危険を察した際に発する声によく似ているといわれており、2012年に英ニューカッスル大学で人間にこの音を聞かせる実験した結果、怒りや恐怖といった感情を含む、脳内の偏桃体と強い関連性が発見されたそうです。
お皿をフォークで引っかく音、クルマのブレーキが鳴る音も同じで、これらの周波数、2000~4000ヘルツは、人間を不快にするといわれています。ところが、実はこれらの音はピアノにも含まれており、オーケストラでもヴァイオリンやフルートのような高音楽器などでは当然のように演奏される音なのです。
考えてみると、確かにヴァイオリンの高い音などは弦を弓でこすっているわけで、ガラスを爪で引っかいているように想像してしまうと、聴けなくなりそうです。では、なぜ素晴らしいソリストが奏でるヴァイオリンの高音は不快ではなく、美しく感じるのでしょうか。
ある実験結果をご紹介します。2つのグループに、人間が不快に感じる、「黒板をひっかく音」を聞かせます。ただし、一方には「黒板をひっかく音」と本当のことを話し、もう一方には「現代音楽の楽曲」と虚偽の説明をします。すると、「現代音楽の楽曲」であると説明したグループには不快感が少なかったそうです。
しかも興味深いことに、双方のグループ共に心拍数、血圧、発汗量は同じで、データとしては不快を感じていることを表していました。つまり、本来は不快な音であっても、ヴァイオリンで音楽を演奏しているという情報が、聴き手の感覚を変えているのかもしれません。
考えてみると、本来は不快なはずなのに嗜好してしまうということも、経験としてあります。たとえば、バイク好きにとってたまらない、けたたましいエンジン音も、一般的には不快です。コーヒーも、苦み自体を好きなのではなく、“コーヒーの苦み”だから、たまらなく美味しいのでしょう。毎晩ビールを楽しみにしている人もいる一方、好きではない人にとっては、ビールは苦いだけの不快な飲み物です。
しかし、前出の実験から考えれば、これらを好きな人も嫌いな人と同じく、脳内では“不快”と感じている可能性があります。
ベートーヴェン『運命』とジェットコースターの共通点
実は、音楽でも同じようなことがあります。それは、すべてのクラシック音楽作品に含まれていると言っても過言ではありません。
わかりやすい例として、ベートーヴェンの超名曲、交響曲第5番『運命』をみてみましょう。“ソとミのフラット”からできている有名な出だしの「ジャジャジャジャーン」がオーケストラの最大音量で演奏され、間髪入れずに“ファとレ”の「ジャジャジャジャーン」が続きます。この2つの「ジャジャジャジャーン」は、和音としては水と油どころではなく、もし同時に演奏したとしたら、極めて耳障りな不協和音になります。
しかし、ベートーヴェンはあえてタイミングをずらすことで、当時の作曲法的な間違いを避けながら、最初の強烈な音のインパクトが脳内に残っているところに、次の「ジャジャジャジャーン」をぶちこみ、聴衆は「なんだ、この始まりは!」と、度肝を抜かれるわけです。しかも、この2つの「ジャジャジャジャーン」が聴衆に最大限の衝撃と緊張感を与え、トランス状態にしてしまいます。その後、実際には一般的な和音によってつくられた音楽が続いていくのですが、、時間の感覚を忘れさせて、あっという間に曲の最後まで行きつくように感じさせます。これは“天才”ベートーヴェンの魔法といってもいいでしょう。
意外に思われるかもしれませんが、遊園地のジェットコースターと同じかもしれません。最初に一番高い場所までゆっくりと登ったコースターが一瞬止まり、乗客の緊張感が最大限に高まったところで、一気に一番下まで下降します。ある意味、恐怖を伴った衝撃的な経験です。ジェットコースターだとわかっているから楽しめるわけですが、もし知らなかったら単に不快な時間となります。
そんな最強の絶叫コースターであっても、もし中間地点くらいから途中乗車ができたとしたら、実はそれほど怖くはないかもしれません。実際には中間地点くらいになると、もう高低差も少なくなっています。ところが、最初の一撃によるトランス状態が最後まで続くことにより恐怖が増幅し、時間を忘れて恐怖を楽しみながら、乗降場まであっという間に戻ってくるのです。
ベートーヴェンの『運命』、ジェットコースター、緊急車両のサイレン……。これらは全然違う分野ですが、人間の不快な気持ちを上手く利用しているという点で共通しているといえます。
(文=篠崎靖男/指揮者)