EV(電気自動車)メーカー・テスラ、宇宙企業・スペースXの創業者で、決済サービス企業・ペイパル元CEO、SNS運営会社・X(旧Twitter)所有者でもある起業家、イーロン・マスク氏。最近では米国のトランプ大統領誕生の立役者としてもクローズアップされているが、一昨年の2023年に世界同時発売されたマスク氏初の公式伝記と銘打たれた書籍『イーロン・マスク』をめぐり、少し前に一部SNS上で「経営の常識に反している」「目標設定の仕方が極めてナンセンス」だとして話題を呼んでいた。米誌「フォーブズ」の世界富豪ランキングで2位(純資産額:2045億ドル)となるほどの大富豪でもあるマスク氏の経営手法から、何を学べるのか。専門家の見解を交えて追ってみたい。
本書の著者は米アップル創業者の伝記でベストセラー書籍『スティーブ・ジョブズ』で知られる作家、ウォルター・アイザックソン氏。日本語版(訳:井口耕二)は文藝春秋刊で、発行部数は上下巻あわせて計20万部以上とされるが、同書から読み取れるマスク氏の経営手法のエッセンスとは何か。経済評論家で百年コンサルティング代表の鈴木貴博氏に解説してもらう。
設定した目標が結果的に正しいことが後からわかる
イーロン・マスク氏の伝記を読んだ方が、マスク氏の目標設定の手法が経営の常識に反しているうえに、その目標をターゲットにした結果、なぜか成功につながったという内容をX上にポストし、バズりました。確かにマスク氏の経営手法には一見、経営の常識に反しているような視点が多く見られますが、実際はどうなのでしょうか。経営コンサルタントとして過去、多くの大企業経営者の手法を見てきた立場から、マスク氏の経営手法の特徴を解説したいと思います。
マスク氏の経営手法を伝記に書かれたエピソードから抽出すると、普通の経営者には見られないけれどもレジェンド級の経営者が用いる奥義のような3つの手法が、頻繁に登場することがわかりました。それは、
(1)最終ゴール(勝った状態)に到達した状態をイメージしたうえで、そこから戦略を逆算していく
(2)専門家にたいして「なぜ」を繰り返し質問し続けることで、構造をシンプルにしていく
(3)状況が膠着した際には、まったく違った視点からの数値目標を提示することで膠着状態を突破する
という手法です。
しかもマスク氏の場合は、直感が天才的に優れているせいでしょうか、設定した目標が結果的に正しいことが後からわかるというオチが、伝記のなかで何度も語られます。Xに投稿された事例とは別のエピソードで、それぞれ説明していきたいと思います。
(1)最終ゴールの状態をイメージしたうえで、そこから戦略を逆算
これは一般の経営者もよく「自分もこれをやっている」と思い込んでいる手法ですが、マスク氏の場合はその最終ゴールのイメージを常人よりもはるかに遠いところに設定することが特徴的です。
具体例を挙げると「スペースX」の場合は「人類を火星に送ること」が勝った状態です。利益が出るとか、IPOできるとか、創業者としてビリオネアになれるといった中間段階は考慮しません。そして戦略はそのゴールに合致するかどうかを基準に選択します。その基準に照らしあわせると「NASAから打ち上げ業務を受託する」だけでは人類を火星に送るための資金調達額が足りないことが計算できます。勝つためには、それ以外の事業に参入する必要があります。競合であるアマゾンのジェフ・ベゾス氏は宇宙旅行ビジネスを展開していますが、マスク氏は事業規模が不十分だという理由で宇宙旅行ビジネスには興味を持ちません。マスク氏が選んだのはインターネットビジネスです。市場規模は1兆ドルで、その3%を獲れれば300億ドルとNASAの予算以上になります。こうした思考でマスク氏は衛星インターネット事業のスターリンクへの参入を決めます。この一連の思考がマスク氏の特徴的な手法です。
テスラの自動運転では、競合であるグーグルのウェイモがレーダーやライダーを駆使して自動運転タクシーの営業運転を開始した一方で、マスク氏はテスラ車からレーダーを廃止します。テスラが自動運転市場で勝っている「ゴールの状態」を考えると、カメラだけでAI(人工知能)が学習して自動運転するニューラルネットワーク方式のAI自動運転車のほうが、レーダーを駆使してルールベースで判断する従来型のAIよりもはるかにコストが低いのです。テスラの場合は市中を走るテスラ車から無数の学習用の動画が得られる環境があるため、学習スピードではウェイモよりも優位です。完成段階をイメージできればレーダーを捨てたほうがウェイモに勝てるという判断です。
(2)専門家に対して「なぜ」を繰り返し、質問し続けることで構造をシンプルに
スペースXでは(1)の手法から参入したスターリンクについて、設定した目標値に専門家がなかなか到達できずにいました。具体的には衛星の大きさを10分の1にしたうえで、製造スピードが10倍のスピードにならなければ「勝てる」状態に持っていけないのです。そこでマスク氏はチームのトップ8名を更迭して、マスク氏のやり方を熟知しているメンバーを送り込みます。新しいメンバーは衛星の設計については素人ですが、専門家たちに対して「なぜ」を繰り返すことで衛星の構造をシンプルにしていきます。
たとえばアンテナとフライトコンピュータが設計では別々の構造体になっています。理由を聞くと熱が問題で、フライトコンピュータの熱でアンテナが過熱する恐れがあるからです。ところが「なぜ分離しないと過熱するのか?」「試験データは?」と訊いていくと、必ずしも分離しなくてもいいことがわかってきます。目標はより小さい衛星を作ることなので、その目標にあわせて要件を一つひとつ物理のレベルで問い直すのです。結果として入り組んだ構造だった衛星がごくシンプルで平べったいものとなり、製造コストは一桁安くなりました。
それで完成かと思ったところ、マスク氏はそれでは満足せずにさらに細かいところに「なぜ」をかぶせていきます。軌道に放出する際に衛星同士が衝突しないようにひとつずつ固定していたのを見て「固定具はいらないんじゃないか?」と質問したときには、技術陣全員がありえないと思ったそうです。ところが宇宙船が動いているので放出時には自然に衛星同士の間隔が空きます。たとえぶつかっても相対速度が小さいため衛星は壊れないことがわかり、固定具をなくしたことでコストがさらに下がり、積載量も増やすことができたのです。
似たようなエピソードに、ロケットの素材を炭素からステンレスに切り替えた話があります。炭素素材は金属よりも重量が軽くなることから次世代のロケットの機体の素材として採用されました。ところがマスク氏の視点でみると、炭素繊維の機体は加工に手間と時間がかかりすぎます。そのために金属よりも桁違いに高コストになります。計算してみると、いずれ資金が枯渇して「火星には行けない」ことがわかります。
そこでマスク氏は「もういちどステンレスでできないかを計算するように」指示します。するとスターシップ(スペースXが開発するロケット)の条件ではステンレスのほうが機体が軽くなることが判明します。宇宙空間のような極低温ではステンレスの強度が50%増しになるからです。溶接加工もステンレスならはるかにシンプルにできます。結果として「なぜステンレスはだめなのか?」とあらためて質問したことが、スペースXを火星に向けて一段階進める結果を生んだのです。
(3)状況が膠着した際には、まったく違った視点からの数値目標を提示する
今回、ツイートがバズったのはマスク氏が提示する目標が、普通に思いつく目標と比較してずいぶん非常識なのに、結果的にそれがブレークスルーにつながったというエピソードが多く見られたことでした。EVの開発において航続距離ではなく電池の積載量を目標にしたり、ロケットの開発においてエンジンの出力ではなく省略する部品の数を目標にするというエピソードです。これらのエピソードを自伝で読むと、その前後ではいつも状況が膠着していたことがわかります。要するにまっとうなKPIを持ち出して目標にしたところ、開発が止まってしまっていた。そのような場合に全く違う視点からの目標を提示することで膠着状況を打破するというのがマスク氏の手法であることがわかります。
マスク氏はチームに対して明確な目標を提示することがイノベーションを進める手法だと考えています。軌道まで打ち上げる質量1トンあたりのコストや、人が介入しないで走行できる自動運転の平均距離などです。そして、それがうまくいっていない場合に、マスク氏はゴールに到達するための別の数値目標をわざと持ち出すのです。スターリンクのチームに対して、あるときマスク氏は「衛星のソーラーパネルで捉えられる光子の数と、そのうち何個を地上に届けられるのか?」を基準にしてその効率を高められないかをチームに検討させます。チームのリーダーの反応は、「おおっと、それを基準にするという発想はなかったな、みたいな?」というものでした。要するに常識的な目標とは違う見方をマスク氏が提案したわけです。その数字を追った結果、チームは周回軌道の高度を低くすることで通信遅延を減らすという解に到達して、アメリカの連邦通信委員会に新たな軌道計画を申請します。決められた高度では実現できないイノベーションを、前提となる高度を変えることで達成したのです。
このやり方はイノベーションを次々に起こしていくための経営手法としては理解できるのですが、私にもどうしても理解できない点が一点だけあります。マスク氏の場合は、そのようにして直感で持ち出した意外な目標が結果的に正しいのです。この点だけはマスク氏が普通の優れたレジェンド経営者たちよりも天才だからとしか評しようがない、そんなふうに感じます。
(文=Business Journal編集部、協力=鈴木貴博/百年コンサルティング代表取締役)