四島氏は、全国相互銀行協会(現第二地方銀行協会)会長に就任後、相互銀行を普通銀行(第二地方銀行)に転換させるべく働きかけ、実現させた立役者だ。
福岡県出身の四島氏は、慶應義塾大学卒業後、1951年に父の一二三(ひふみ)氏が創立した福岡相互銀行(後の福岡シティ銀行)に入行した。そして、「父に遠慮して意見を言わない行員が多い。個人商店がそのまま大きくなったようで、企業としての体裁をなしていない。このままではダメだ」と感じたという。
一二三氏に反発心を抱いていた四島氏は、まるで対照的な生活を送った。一二三氏が日暮れとともに床につき、夜明け前に起きて仕事をする一方、四島氏は朝帰りをすることも珍しくなかった。若い行員に禁酒禁煙を推奨していた一二三氏の面目が丸潰れになるようなドラ息子ぶりだったという。
69年、四島氏が44歳で社長に就任した際には「二代目はいつまでもつか」と、周囲からは冷ややかな目で見られた。以来34年間、同行の社長と頭取を務めて「九州財界の重鎮」になるとは、誰も予想しなかっただろう。
90年代のバブル崩壊後は、多額の不良債権が多くの銀行の経営を圧迫し、金融庁のシナリオに沿って、有力な地方銀行は次々と再編に動いた。2001年に長崎銀行を子会社化した福岡シティ銀行は、九州最大の地銀・福岡銀行との合併交渉を進めた。しかし、システム統合を居丈高に迫る福岡銀行の態度に、福岡シティ銀行の頭取を務めていた四島氏が激怒した。
結果的に、福岡シティ銀行と福岡銀行の合併はご破算になる。一二三氏が大の大蔵省(現財務省)嫌いで有名だっただけに、福岡銀行の上から目線に猛反発した四島氏は、父親譲りの起業家精神の持ち主だったのかもしれない。
その後、福岡シティ銀行は福岡銀行のライバル・西日本銀行に合併を働きかけ、02年4月に合意した。経営統合を決断した四島氏は、03年6月に頭取を辞任する。04年10月に福岡シティ銀行と西日本銀行が合併し、西日本シティ銀行が発足したが、四島氏は一切の役職に就かず、「潔い身の処し方だ」と評された。