その後、内紛はさらにエスカレート。西田氏は「週刊現代」(講談社/13年6月1日号)誌上で佐々木氏との確執を認め、事の顛末を暴露したのだ。佐々木の社長在任中の評価について「固定費削減ばかりに集中し、将来の成長に向けた経営を怠った」「苦手な海外の顧客や機関投資家へのトップセールスにも行かず、社内で会議ばかりしていた」「実績を残したというのなら、ライバルの日立製作所と拮抗するくらいの業績を出していないといけないが、日立には負けている」など、いくつもの落ち度を列挙し、社長としての能力に落第点をつけた。
さらに西田氏は、12年6月の株主総会後に「来年は代わってもらうよ」と佐々木氏に社長退任を促したが、佐々木氏は「あと1年やりたい」と13年6月の退任を主張していた内幕も明かした。日本を代表する大企業トップが自ら、奥の院の醜態をここまでさらけ出したのは初めてだろう。
形勢逆転
佐々木氏が反撃に出る可能性の芽は摘まれていた。社長時代に佐々木氏は、後継者を指名する権利も奪われていたからだ。東芝は03年に委員会設置会社へ移行し、社外取締役2人と会長の西田氏の3人で構成される指名委員会で、社長や役員の人事を決める体制になった。13年に複数候補者の中から田中氏を次期社長に選んだのは、この指名委員会だった。
この時、現在の経営体制につながる布石となる重要な人事を決めていた。指名委員会は13年5月8日、常任顧問だった室町氏を6月下旬の株主総会後に取締役へ復帰させる人事を決めた。室町氏は12年まで東芝の副社長を務めていた。一度退任したOBが取締役に復帰するのは珍しく、室町氏は西田氏が社長当時、右腕といわれた人物だ。
室町氏は半導体事業のエキスパートであり、西田氏が半導体と原子力発電を東芝の二枚看板に据える経営方針を示した際に半導体部門のトップを務めた。だが、08年のリーマン・ショック後に東芝は半導体で巨額赤字を出したため、09年3月期決算で3435億円の巨額赤字に転落。西田氏は社長から会長に退いた。
後任社長に就いたのが、もう一枚の看板である原子力事業を率いてきた佐々木氏だった。両者の確執はこのときの社長交代にさかのぼる。西田氏は「引責辞任」とは口が裂けても言わなかったが、社長を退いたのは事実上の引責辞任だった。ポスト西田の有力候補であった室町氏は社長レースに敗れ、東芝本社を去らざるを得なくなった。
完成した西田院制
しかし、11年3月11日の東日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所事故が、佐々木氏の権力基盤を突き崩した。原子力畑一筋の佐々木氏に対して批判発言を繰り返してきた西田氏はこの事故後、完全に東芝の経営の主導権を奪還した。