米国のシンガーソングライター、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。私もそうだが、世界中の多くの人々は「やったー」という気持ちだろう。
一方で、ごく一部の人はディランの受賞を苦々しく思っているらしい。
「ディランの名はここ数年頻繁に取り沙汰されてはいたが、私たちは冗談だと思っていた」
「私もディランは好きだ。だが作品はどこにある?」
ディランの受賞に批判的な反応を示した、海外の巨匠の言葉である。
世界的な文壇では、ノーベル賞待ちの行列に並んでいる巨匠たちが何人もいる。ホルヘ・ルイス・ボルヘスのように行列に並んだまま時間がたって死んでしまった文豪も何人もいる。ノーベル賞が贈られるのは存命中の人物だけ。ノーベル賞を待っているのは、村上春樹だけではないのだ。
物理学賞などのように最高3人までが受賞できる賞ではない分だけ、文学賞を心待ちにしている世界中の巨匠たちにとっては、本音では「枠がひとつ無駄に減ってしまった」という怒りのほうが大きいのだろう。
ノーベル文学賞の歴史
しかし、ノーベル文学賞はむしろ文学の枠を未来に向けて広げようとしているようにみられる。
実はノーベル文学賞は設立から当初の50年間は、現在のような文学作品以外で哲学者にも与えられてきた。ところが、1953年にイギリスのチャーチル元首相が回顧録でノーベル文学賞を受賞した際に議論が起きて、それ以降、文学作品としての業績にしか賞は与えられないようになった。
ところが近年、ノーベル文学賞を選定するアカデミー会員の若返りにともない、文学の概念が拡大しているのでは、といわれ始めている。今年のディランだけでなく、昨年のアレクシエービッチもどちらかといえば職業はジャーナリストだ。
以前の基準では、日本人でノーベル文学賞を受賞できるのは芥川賞のような純文学系列の人のみと思われていたのだが、ひょっとするとこれから先、戦場ジャーナリストから直木賞受賞者や音楽アーティストまで、これまでの門外漢とされてきた人々にも受賞範囲は広がるかもしれない。
ただノーベル文学賞にはもうひとつ、不文律のような受賞基準がある。それは作品の中身が重いことだ。反権力や理不尽、圧政や病理など、とにかく何か重いものが対象としてあって、そこでどうしようもない怒りをどのようなかたちで表現できるかが、近年のノーベル文学賞受賞のためには重要な要素だった。