だから音楽分野では今回のディラン、そして生きていればジョン・レノンあたりまでは対象になりうるのだが、ポール・マッカートニーやミック・ジャガーはそもそもいくら文学的な詩だったとしても、「怒りが足りない」という理由からノミネートはされないだろう。
一般人にも狙えるノーベル賞?
さて、われわれ一般人にも狙えるノーベル賞はなんだろう?
又吉直樹やいきものがたりのような文才があって、村上春樹のようにアメリカで積極的に作品を売ってくれるエージェントが見つかれば、あとは作品に「重さ」を加えていくことで今後のノーベル文学賞はいけるかもしれないが、ほとんどの人には遠い世界だろう。
また物理学賞、化学賞、生理学・医学賞は一般人にはたぶん無理だろう。電気の実験中に偶然、反重力装置や放射能除去装置を発明したら一般人にも可能性があるとは思うが、たぶん発明できないだろうから、この3つの賞は仕方がない。
一般人で一番可能性があるのは平和賞だ。政府に反対してどこかに座り込んで、いつの間にかその騒動の中心人物になってしまい、それがノルウェーのノーベル委員会の目にとまるというパターンは人生の中で起きてもおかしくはない。
ただその場合、反対する政府がラスボスぶりを発揮できていないとなかなか受賞をめぐる競争には勝ち残れないだろう。ナチスに反対したオシエツキー、反ソ科学者のサハロフ、ミャンマーのアウンサンスーチーやポーランドのワレサのように、反対する相手がハンパない存在であるほうが受賞には近い。
その意味で、ノーベル平和賞を受賞したい一般人は、日本ではちょっと難しい。だから、圧政の国へと亡命するのがいいだろう。
そこまで骨がない、そして文才もない一般人の場合、ノーベル平和賞も「重さ」が重視されるノーベル文学賞も難しいかもしれない。
ちょっと異質なノーベル経済学賞
しかし、唯一の希望があるのはノーベル経済学賞だ。
経済学者の場合は、アメリカやイギリスのブランド力が高い大学の序列内で輝かしい業績を持っていない人には、受賞は難しい。しかし、その一方でノーベル経済学賞は実はノーベル6賞の中で比較的、門外漢に門戸が広い。経済以外の分野での意外な発見がノーベル経済学賞につながることがある。
たとえば、エスカレーターに乗る時、東京では自然と左側に、大阪では自然と右側に立った人が並び、空いている側を歩く人が使うようになる。