2月7日、いよいよ大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK総合)が最終回を迎える。そのクライマックスは当然、長谷川博己演じる主人公の明智光秀が、主君・織田信長に反旗を翻した”本能寺の変”だ。ところで、本能寺で信長を討った光秀の、その後の行末をご存じだろうか。
本能寺の変が起きたのは天正10年(1582年)6月2日。しかし、直後の6月13日に信長の弔い合戦とばかりに襲ってきた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)との”山崎の戦い”で敗れ、なんとか逃げ仰せたものの、最後は落ち武者狩りにあって殺された。または致命傷を受けて自害したというのが、定説となっている。このときに討ち取られた証拠として、本能寺で光秀の首が晒されたことも記録として残っているからだ。
とはいえ、当時は歯型での確認やDNA鑑定などがない時代。影武者や、本人とよく似た別人と取り違えた可能性もなくはないのである。また、光秀の死は旧暦の6月で、現在なら7月に当たる。首を検分するまでに腐敗が進んでいたことも考えられる。そうなると、その首が100%本物とは言い切れなくなってくるのだ。
そのため、今でも一部で根強く囁かれているのが、”実は光秀は生きていた”という説である。山崎の戦いで敗れたあと、死なずに落ち延び比叡山に隠れ、江戸幕府の礎を築いた”南光坊天海”として、再び歴史の表舞台に舞い戻ったともいわれているのだ。これは、いくつか裏付ける証拠があるからこそ囁かれている説である。
そこで今回は、この「光秀=天海」というトンデモ説について検証していきたい。
その根拠を示す前に、まずは南光坊天海とはいかなる人物なのかという説明を簡単にしておこう。天海は徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策など、幕府における多くの政策に深く関与した天台宗の僧侶である。徳川家康の懐刀ともいわれ、家康亡きあとは2代将軍・秀忠、3代将軍・家光と、3代に渡って徳川家に仕えた。
だが、その活躍ぶりとは裏腹に、出自には不明な点が多く謎の人物とされている。生年は天文5年(1536年)説が有力で、陸奥国(福島県、宮城県、岩手県、青森県)の蘆名氏(あしなし)という一族の出身らしい。このような身元不明な人物が家康の側近となり、しかも当時の僧の最高位である大僧正にまでなっているのである。天海が”怪僧”とも称された由縁がこれだ。
明智光秀が生き延びていたとする数々の根拠
天海はかなり有能な人物だったということがわかるが、ではなぜ光秀=天海説が唱えられたのか。ここからは、その根拠となる理由をいくつか取り上げていくことにする。
まずは光秀生存説を見ていく。そのひとつめは、京都宇治にある専修院と神明神社に伝わる伝承。ここにはなんと、「光秀を匿った」という伝承が残されているのである。
2つ目は、『和泉伝承誌』にある記述だ。山崎の戦いのあとに光秀が京の妙心寺に姿を現し、その後、和泉(現在の大阪府南西部)に向かったと書かれている。
3つ目は、大阪府岸和田市にある本徳寺(開基時には大阪府貝塚市鳥羽=和泉)に、「一時期、光秀が潜伏していた」という伝承があるのだ。「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡が残っているのだが、この十兵衛というのが、まさに光秀のことなのだ。
4つめの根拠は、比叡山にある叡山文庫だ。俗名を光秀と名乗った僧の記録があるのである。
最後は、”光秀の生地”とされている現在の岐阜県から。同県の山県市中洞には、光秀が落ち延び、”荒深小五郎”と改名して関ヶ原の戦いごろまで生き延びたと伝えられているのだ。
以上が山崎の戦いのあとに光秀が存命していたとする説・伝承である。だが、これらの説は、光秀が天海になったというところまでは言及されていない。
光秀=天海の根拠
では、光秀=天海説の根拠とはどのようなものか。
そのひとつ目は、天海の墓所がある場所だ。滋賀県大津市坂本にある恵日寺に、天海の墓である慈眼堂があるのだが、この坂本という土地は、光秀の居城だった坂本城があった場所なのである。さらに、光秀の木像と位牌のある寺は慈眼寺というのだが、その寺号と天海の諡号に、同じ”慈眼”が使われている点も注目に値しよう。
2つ目は、比叡山の天台宗・松禅寺(滋賀県大津市)に現在もある、光秀寄進の石灯籠だ。この石灯籠には”慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀”と刻まれており、この”光秀”が明智光秀のことを指すのではないか、というのだ。
ここで問題となるのが、寄進日の”慶長20年2月17日”。歴史に詳しい人ならおわかりだろうが、慶長20年は西暦にすると1615年で、豊臣家が大坂夏の陣で滅亡した年なのである。当然、光秀はすでにこの世にはいない。これは、自身を滅ぼした豊臣家の敗北を願い、光秀=天海が寄進したものではないかというワケだ。
3つ目は、家康を東照大権現として祀る東照宮のある日光である。この東照宮近くの中禅寺湖や華厳の滝が望める高台の地名は”明智平”というが、命名したのは天海だと伝えられているのである。
4つ目は、関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の”関ヶ原合戦図屏風”である。この屏風には、学僧であるのに、鎧で身を固めた天海の姿が家康本陣に描かれている。軍師的な役割ならば、戦いの経験がある光秀にほかならないとして、光秀=天海だとされているのだ。
5つ目は、光秀の孫である織田昌澄の存在だ。大阪の陣において豊臣方として参戦したにもかかわらず、戦後、不思議にも家康に助命されているのである。
最後は、3代将軍・家光の乳母である春日局の存在だ。彼女は光秀の重臣だった斎藤利三の子である。家光の乳母になり、天海と面会した際に「お久しぶりです」と声をかけたという逸話があるのである。また、家光の子で4代将軍・家綱の乳母も、光秀の重臣だった溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されている点も見逃せない。
ちなみに、天海が歴史の表舞台に姿を現すのは、天正16年(1588年)のこと。武蔵国(現在の埼玉県川越市)の無量寿寺北院(のちの喜多院)に現れ、”天海”を名乗ったとされている。浅草寺の史料によれば、天正18年(1590年)の小田原征伐の際、天海は浅草寺の住職・忠豪とともに、家康の陣幕にいたとされており、このときすでに出会っていたというワケだ。
慶長4年(1599年)には北院の住職となり、その後は家康の参謀として朝廷との交渉役などの役割を担い、江戸幕府内での発言力を増していく。結局、その死を迎えたのは寛永20年(1643年)。なんと108歳で没したとされているのである。当時では考えられない100歳を超える長命であったのだ。平均寿命が50歳といわれる時代に、信じがたい話である。
ただ、光秀も天海も、生誕年や前半生がはっきりしておらず、謎の多い人物であるという共通点がある。さらに、光秀があまりにも優れた武将であったならば、政治の表舞台に立つのではなく、天下人のサポートをするという立場で裏から天下を動かし、自らの手腕を試したとの説も、あながち突拍子もないことではない。
とはいえ、この光秀=天海説は、都市伝説というか、いずれも”こじつけ”の域を出ないものばかり。決定的な証拠ではなく、推測にすぎないにもかかわらず、光秀=天海説が唱えられてきたのは、やはり歴史上のミステリーとしての面白さがあるからだ。
これらの設定を生かした作品も多くあり、それだけ魅力的な謎だといえる。というワケで、最後はこのセリフで締めたいと思う。信じるも信じないもあなた次第です。