細川ガラシャ夫人は、「逆臣」明智光秀の娘である。彼女は、後に肥後(熊本)の大名となった細川家の当主、細川忠興の正室となった。ガラシャの本名は、明智玉子(玉)である。
ガラシャは、1563年の生まれである。これは、戦国時代の群雄の争いがまさに佳境に入った時期である。自決して亡くなったのが1600年、それは関ヶ原の戦いにおいて東西両軍が激突する直前のことだった。まさに彼女は、戦国時代を生き抜いた女性であった。
ガラシャは、キリスト教の洗礼を受けている。このガラシャ夫人という呼び名は彼女の洗礼名(伽羅奢)に由来し、明治時代になって使用されるようになったものである。
若い読者にはなじみがないだろうが、細川ガラシャというと連想されるのが、深作欣二監督による大作映画『魔界転生』である。1981年に封切られたこの作品は、山田風太郎原作の伝奇小説を大幅に改変したものになっている。
映画のなかでは、沢田研二演じる、島原の乱で命を落としたキリシタンらの頭領、天草四郎時貞が魔界の力によって現世に転生する。天草四郎は、徳川幕府に復讐を遂げるため、無念の死を遂げた者たち、宮本武蔵、宝蔵院胤舜、伊賀の霧丸、細川ガラシャ夫人らを「魔界衆」として蘇らせて幕府を追い詰めていく――そんな破天荒な物語である。
この天草四郎に立ち向かうのが、千葉真一が演じる柳生十兵衛であった。一方、巫女に化けたガラシャは、4代将軍徳川家綱に見初められて側室・お玉の方となり、その美貌と妖艶さによって将軍を篭絡してしまうが、やがて錯乱状態となったガラシャは、江戸城を火の海にしてしまうのだった。
実は山田風太郎の原作にガラシャは登場しておらず、ガラシャの登場は深作監督のアイデアであったらしい。この映画におけるガラシャ夫人の「魔性の女性」としての印象は強烈なものがあったが、実際のガラシャは、実は妖艶さとは無縁の生真面目で貞淑な女性であった。
ガラシャは、この時代の著名人である。けれども前回の【「偉人たちの診察室」第10回・淀君】で述べたように、戦国時代の女性に関する記録は驚くほど少ない。本稿においては、多くの資料の比較から、ガラシャの生涯を記述した歴史学者・田端泰子氏の著作(『細川ガラシャ』ミネルヴァ書房)を参考に、彼女の生涯を振り返ってみよう。
『明智軍記』によればガラシャは大変な美人で琴や笛の演奏が巧み、夫の細川忠興も大変な教養人
ガラシャは、1563(永禄6)年に越前で、明智光秀と妻・煕子の間に四女として産まれた(三女など他の説もある)。煕子は、光秀との間に三男四女をもうけている。
ガラシャの姉のひとりは、信長の甥である織田信澄の妻となった(信澄は本能寺の変の際、謀反の疑いをかけられて自害している)。また別の姉は、荒木村重の嫡男に嫁していたが、村重が織田信長に反旗を翻したため、離縁して助け出されている。
ガラシャの幼少時代の記録は、公式なものも私的なものも残存していない。おそらく織田信長の重臣として戦地を渡り歩いていた父と触れ合う機会は少なかったであろうが、賢母といわれた母により大切に育てられたと思われる。
ガラシャと細川忠興の婚約を決めたのは、主君である織田信長であった。信長は自らの覇権を確立する過程において、姉妹、娘たちを戦国大名、公家、家臣に嫁がせて、積極的に縁戚関係の形成を行った。さらに家臣団に対しても多くの縁談を成立させており、ガラシャの細川家への嫁入りもその一貫だった。
1578(天正6)年8月、ガラシャは、細川藤孝の嫡男である忠興に嫁いだ。この婚姻は信長の命令による「主命婚」であったが、両家にとってもこれは望まれた縁組であった。
というのは、ガラシャの父である明智光秀と、ガラシャの夫となる細川忠興の父、細川藤孝(幽斎)は、15代将軍足利義昭を奉じていた時代から長く苦労を共にした仲であったからである。
さらに光秀も藤孝も教養豊かな文化人であったことも、両家を結び付けていた。特に藤孝は、「古今伝授」(『古今和歌集』の解釈の秘伝を伝授されること)を受けるなど、その時代の飛び切りの文化人であったことが知られている。
ガラシャは、1578(天正6)年8月、細川家の居城である勝竜寺城に輿入れをした。翌1579(天正7)年に長女を、1580(天正8)年には長男を産んでいる。ガラシャは夫の忠興に伴い、丹後八幡山城、次いで宮津城に移っている。
『明智軍記』によればガラシャは大変な美人で、琴や笛の演奏が巧みであり、当代一の文化人であった舅の細川藤孝も最愛の嫁としてかわいがったと述べられている。ちなみに夫である忠興も茶の名人で、千利休の「利休七哲」のひとりに数えられているほか、和歌、連歌、能などにも造詣が深かった。
細川ガラシャの性格特徴は、うつ病の「病前性格」の「執着気質」と一致か
かように順調であったガラシャの人生は、1582(天正10)年6月に、父である光秀が起こした本能寺の変によって暗転する。
光秀が本能寺の変を起こした理由は、今でも謎に包まれている。光秀自身の恨みや野望説の他、足利義昭、朝廷、イエズス会の黒幕説などいくつかの可能性が論じられているが、どの説においても明確な根拠は明らかになっていない。
そもそも不可解な点は、実行犯である光秀が、主君信長を討ち取った後の事後処理についてほとんど無計画であった点である。盟友である細川家に対しても同様であり、細川藤孝、忠興らも変の後になって、光秀から味方になるように依頼を受けている(細川家はこの誘いを拒否した)。
そして周知のように、秀吉の「中国大返し」によって、光秀の天下は10日あまりで終わりとなり、山崎の戦いに敗れた光秀は、帰らぬ人となった。これによりガラシャは「謀叛人の娘」となったため、夫の忠興により「離縁」され、丹後国の三戸野に幽閉されることとなった。
しかし、この「幽閉」は世間の目を考えた、名目上のものだったようである。当時は、離婚となると妻は実家に帰されるのが普通であったが、そうしなかったのは、忠興のガラシャへの愛情が断ち切れなかったからともいわれる。実際、のちに権力者秀吉の許しを得て、2年後に忠興はガラシャを再び迎え入れた。
確かな資料はないものの、田端泰子氏は、このような厳しい境遇に置かれたガラシャはうつ状態となったが、その状況をキリスト教への入信によって乗り越えたのではないかと推察している。
細川家に戻ってからも、キリスト教に帰依する以前のガラシャは「たびたびうつ病に悩まされ、時には一日中室内に閉じ籠って外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとせぬことさえあった」(田端泰子『細川ガラシャ』ミネルヴァ書房)という。
過酷な幽閉が長期に続けられたことを考えれば、再び妻として迎え入れられてからも、彼女がなかなか安定した精神状態を得られなかったことは容易にうなずける。ガラシャは元来、強い意志を持つとともに、生真面目で几帳面な性格の人であった。
このような性格特徴は、うつ病の「病前性格」の「執着気質」と一致している。これはわが国の精神科医である下田光造が提唱したもので、仕事熱心、凝り性、徹底的、几帳面、強い正義感を持つことなどが特徴である。ガラシャの性格特徴はこの執着気質に通じるものがあり、そのためうつ病が発症しやすかったのかもしれない。
キリスト教を知ってからのガラシャは、「喜びを湛え、家人に対しても快活さを示し」「忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙虚で温順」となり、うつ病から回復することができたという(田端泰子『細川ガラシャ』ミネルヴァ書房)。
幽閉時代のガラシャに従者として付き添っていたのは、儒家の出身である清原いとであったが、いとはキリスト教の入信者であり、ガラシャを手ほどきしたのもいとであると考えられる。のちにガラシャに洗礼を施したのも、いとであった。
修道士をして「これほど明晰かつ果敢な判断ができる女性は初めて」と言わしめたガラシャ
1587(天正15)年2月、夫の忠興は秀吉に従って、九州へ出陣した。その間に、ガラシャは大坂の教会を訪問することができた。教会でガラシャは日本人のコスメ修道士にいろいろな質問をした。コスメ修道士はのちに、「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べてたという。
ガラシャはその場で洗礼を受けることを望んだが、身分を明かさなかったためにそれはかなわなった。その後ガラシャは再び教会に行くことができなかったため、教会から送られた書物を読むことなどにより信仰に励んだ。やがて、前述したように、イエズス会の神父により、侍女のいとによって洗礼を受けている。
秀吉によりバテレン追放令が出されたことにより、九州から帰国した忠興はガラシャに棄教を迫ったが、彼女は決して応じようとしなかった。
そして1588(天正16)年、絶対的な権力者であった太閤秀吉が死去すると、再び天下は乱れ始める。特に秀吉の腹心の部下であった石田三成と、加藤清正を中心とした「武闘派」との確執は深く、ついに武闘派の諸将が、石田三成の屋敷を襲うという事件が勃発する。ガラシャの夫忠興も反石田派であり、石田邸の襲撃に参加した諸将のひとりであった。
石田三成は辛くもこの危機を逃れるが、この隙に乗じて勢力を拡大したのが、徳川家康であった。家康は三成を謹慎処分として佐和山城に封じ込めると、なかなか上洛しない上杉家に向けて討伐軍を編成した。
秀吉からの面会要求を「父の敵だから」と断固拒んだガラシャの意志の強さ
1600(慶長5)年7月16日、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣した。しかしこの「奥州征伐」は家康の仕組んだ罠であり、最大の敵である石田三成の挙兵を促す壮大なフェイクだった。
この罠にはまった三成は反家康軍を編成し、兵を集める。この軍勢が関ヶ原の戦いの西軍となる。この時上方で三成が行ったのは、家康軍に属する諸将たちの妻や子どもを人質として確保することであった。
石田三成は、大坂の細川屋敷にいたガラシャを人質にして大坂城に連れ去ろうとしたが、彼女は拒絶した。さらに三成は屋敷を兵でとり囲んだが、ガラシャは人質となるよりも自死することを選び、家老の小笠原秀清に介錯させ、屋敷に爆薬を仕掛け自らを葬り去ったのだった。
自死を選んだガラシャの激しい性格は、他のエピソードからもうかがえる。生前の秀吉がガラシャに会いたいといってきたところ、ガラシャは、「秀吉は父の敵であるから、殺されても会いにいくことはありません。強いて前に出よとあらば懐剣を以て殺し、讐を報じます」と述べたという。
厳しい境遇にさらされて軟禁状態となりうつ病にまで至りながらも、キリスト教の助けを借りたとはいえそれを克服し、ガラシャは細川家の繁栄に大きく貢献した。彼女は、まさに戦国時代を駆け抜けた女性であったといえよう。
(文=岩波 明/精神科医)