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「偉人たちの診察室」第10回・淀君

精神科医が語る秀頼の母・淀君の「心的外傷後ストレス障害」…家康に何もできなかった女

文=岩波 明/精神科医
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豊臣秀吉の側室・淀君。近江国の戦国大名・浅井長政の娘で、母は織田信長の妹・お市の方。浅井三姉妹の長女。(画像はWikipediaより、奈良県立美術館所蔵の『伝淀殿画像』)

 淀君は豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母である。

 織田信長の妹、お市の方の長女である淀君は、その生涯において、3度も似たような状況で死地に直面した。なお「淀君」という名前は後の時代につけられた蔑称であり、本来は「淀殿」と呼ぶべきであるという主張もあるが、ここでは一般によく知られた淀君という呼称を用いることとする(福田千鶴『淀殿』ミネルヴァ書房)。

 1573年、叔父に当たる織田信長の軍勢に父の浅井長政が攻撃を受け、小谷城が落城した。この合戦で浅井家は滅亡し、長政は切腹して果てたが、淀君は母のお市の方と2人の妹と共に、戦地から逃れて織田家に引き取られた。

 淀君の父方の浅井家は当初織田信長の同盟者であったが、その後は朝倉家と同盟して信長と敵対関係となり、最終的には滅亡の憂き目に遭ったわけだ。

“十文字切り”で腹をかっさばいた柴田勝家の壮絶な最後、そして淀君は秀吉の側室となる

 淀君の2度目の死地は1583年、淀君、16歳の時のことである。母が再婚した織田家の家老・柴田勝家と豊臣秀吉の合戦がその舞台となった。本能寺の変で信長亡き後、覇権を争った勝家と秀吉は賤ヶ岳の戦いで激突したが、勢いの勝った秀吉勢が打ち勝ち、勝家とお市の方は北ノ庄城で自害して亡くなる。この際も、三姉妹は再び助命されている。

 勝家の最後は、次に示すように凄惨なものだった。

……天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえるなか、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻だった。

 勝家は十字切りで切腹し、侍臣の中村聞荷斎を呼び介錯させた。これに殉死するもの80余人。聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった。

「毛利家文書」所収、小早川隆景宛て天正11(1583)年5月15日付け秀吉書状などから(Wikipediaに掲載)

 その後、親の敵とでもいうべき秀吉の側室となった淀君は、秀吉の後継者である秀頼を産んだ。しかし秀吉の亡き後、世の中は次第に徳川家の天下となっていく。

 関ヶ原の戦いの勝利で徳川家の覇権が確立した後のこと、豊臣家は家康から、国替えをして大坂城を引き渡すことを指示された。しかし淀君は決してこれに応じようとしなかったため、ついに1614年、大坂・冬の陣を迎えた。

 この時はいったん和睦したものの、翌年の大坂・夏の陣で大坂城は陥落し、淀君は秀頼とともに自害してその生涯を終えている。

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