精神科医が語る秀頼の母・淀君の「心的外傷後ストレス障害」…家康に何もできなかった女
淀君は豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母である。
織田信長の妹、お市の方の長女である淀君は、その生涯において、3度も似たような状況で死地に直面した。なお「淀君」という名前は後の時代につけられた蔑称であり、本来は「淀殿」と呼ぶべきであるという主張もあるが、ここでは一般によく知られた淀君という呼称を用いることとする(福田千鶴『淀殿』ミネルヴァ書房)。
1573年、叔父に当たる織田信長の軍勢に父の浅井長政が攻撃を受け、小谷城が落城した。この合戦で浅井家は滅亡し、長政は切腹して果てたが、淀君は母のお市の方と2人の妹と共に、戦地から逃れて織田家に引き取られた。
淀君の父方の浅井家は当初織田信長の同盟者であったが、その後は朝倉家と同盟して信長と敵対関係となり、最終的には滅亡の憂き目に遭ったわけだ。
“十文字切り”で腹をかっさばいた柴田勝家の壮絶な最後、そして淀君は秀吉の側室となる
淀君の2度目の死地は1583年、淀君、16歳の時のことである。母が再婚した織田家の家老・柴田勝家と豊臣秀吉の合戦がその舞台となった。本能寺の変で信長亡き後、覇権を争った勝家と秀吉は賤ヶ岳の戦いで激突したが、勢いの勝った秀吉勢が打ち勝ち、勝家とお市の方は北ノ庄城で自害して亡くなる。この際も、三姉妹は再び助命されている。
勝家の最後は、次に示すように凄惨なものだった。
……天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が「修理の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえるなか、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻だった。
勝家は十字切りで切腹し、侍臣の中村聞荷斎を呼び介錯させた。これに殉死するもの80余人。聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった。
「毛利家文書」所収、小早川隆景宛て天正11(1583)年5月15日付け秀吉書状などから(Wikipediaに掲載)
その後、親の敵とでもいうべき秀吉の側室となった淀君は、秀吉の後継者である秀頼を産んだ。しかし秀吉の亡き後、世の中は次第に徳川家の天下となっていく。
関ヶ原の戦いの勝利で徳川家の覇権が確立した後のこと、豊臣家は家康から、国替えをして大坂城を引き渡すことを指示された。しかし淀君は決してこれに応じようとしなかったため、ついに1614年、大坂・冬の陣を迎えた。
この時はいったん和睦したものの、翌年の大坂・夏の陣で大坂城は陥落し、淀君は秀頼とともに自害してその生涯を終えている。
父・浅井長政の供養を繰り返し行った淀君の心の内にあった、浅井長政・お市の方の父母の無残な最期
合戦のクライマックスである落城の瞬間というのはどのようなものなのか。なかなか現代からは想像が難しい。夜ともなれば、光はない世界である。煌々と光る松明だけが頼りになる。
攻め手は、城に火を放ち焼き尽くそうとしたことだろう。銃弾の発射音と血と硝煙の匂い、怒号と断末魔の阿鼻叫喚が飛び交い、その混乱のなかを人々はどうにかして逃げのびようとしたはずだ。
あたりには、切り捨てられた無残な死体や、助けを求める負傷者たち。こうした恐怖のイメージは、その場に臨場した者には繰り返しよみがえってくるのかもしれない。
淀君は、小谷城の合戦で、父の浅井長政、祖父の浅井久政を失った。さらに北ノ庄城においては、多くの部下と共に実母であるお市の方と義父の勝家が自害した。この2度にわたる凄惨な体験は、お姫様育ちの彼女にとって、強烈な影響を与えたと考えられる。
この時代の他の女性と同じように、淀君の人物像については、これだけの著名人であるにもかかわらず、ほとんど資料は残っていない。
秀吉が健在だった時期に淀君の行った活動としては、父方の浅井家の追善供養があげられる。1589年、亡父の17回忌にあたるこの年に、淀君は画工に命じて、両親の肖像画を作成しこれを高野山の持明院に送付している。この肖像画は現在も保管されており、高野山の境内には長政の供養塔もある。
さらに淀君は、長政の21回忌においては、長政のために京都に菩提寺を建立し、養源院と名付けた。養源院とは浅井長政の院号である。ちなみにこの寺の廊下の天井は、伏見城の落城の際に自刃した武将たちの血のりのしみた板を使った「血天井」として知られている。
このような淀君の行動からは、天下人の秀吉から寵愛され贅沢の限りを尽くした生活のなかにあっても両親の無残な死のエピソードがいつまでも彼女の心から離れていかなかったことがうかがえる。この他にも、淀君は寺社への寄進や建物の修繕を積極的に行っている。
淀君と、秀吉の正妻・北政所ねねとの“不仲”は真実なのか?
淀君は、1593年に大坂城で秀頼を出産した。秀吉が57歳の時の子であった。その時点においては、秀頼の従兄に当たる秀次が秀吉の養子に迎えられており、関白として秀吉の後継者とされていた。
秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係の融和を計ったが不調に終わる。1595年には秀次の関白職を奪い、謀反を計画したとされて秀次は自害した。このとき秀次の親族、関係者に対する処罰は苛烈で、秀次一家は女性や子どもまでほぼすべて処刑された。
この事件以降、秀吉の死から大坂・夏の陣までの淀君の動静について、桑田忠親氏の著作を元に記していきたい。(桑田忠親『淀君』吉川弘文館)。
淀君を語る場合、秀吉の正妻である北の政所(ねね)と淀君が犬猿の仲であったということが多くの物語で語られているが、これは事実であろうか。実際、淀君の取り巻きの武将には、石田三成をはじめとして近江近辺出身者が多いのに対し、北政所の周囲にいたのは加藤清正など親族を中心とした尾張出身者が中心であり、それぞれが派閥を形成していたようにも見える。
しかし桑田氏によれば、北政所も、秀頼をわが子同様に扱っていたという。秀頼も彼女を「まんかか様」と呼び、敬慕の念を持っていたらしい。少なくとも関ヶ原の戦いまでは、2人のはっきりした対立関係を示す証拠はないようである。
徳川家康の国替え案を淀君が拒否せず受け入れていれば、豊臣家は存続したのではないか
秀頼の出生後、淀君は伏見城で暮らしていたが、1598年に秀吉が亡くなると、秀吉の遺命により大坂城に移った。これ以後、秀吉が制定した五大老・五奉行による集団指導体制が敷かれたが、実際には機能せず大名間の対立は深まっていく。
1600年の関ヶ原の戦いにおいては、西軍の総大将となった五大老のひとり毛利輝元のもと、淀君と秀頼は大坂城で庇護されていたが、石田三成の率いた西軍はわずか一日で敗れてしまう。関ヶ原の戦後処理で、西軍に与した大名の多くは没落し、豊臣家も多くの領地を失った。
1603年、徳川家康は征夷大将軍に就任し、徳川家の覇権が確立したように見えたが、それでもこの年、秀頼は第2代将軍となる徳川秀忠の娘の千姫(母は淀君の妹のお江の方)と結婚しており、豊臣家の影響力はいまだに無視できないものがあった。
その後、秀頼は順調な官職の昇進を遂げた。毎年の年頭には多くの公家が大坂城で秀頼に参賀しており、朝廷においては、秀頼は関白であった秀吉の後継者として高い地位を保っていた。
1605年、秀頼が右大臣に昇進した際、家康は京都での会見を希望したが、淀君の反対で実現しなかった。これは家康が将軍職を秀忠に譲ったのと同じ時期であり、桑田氏によれば淀君は、家康が上洛を強いるのであれば秀頼を手にかけて自害することも厭わないとまで述べたという。
1611年、秀頼は「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、加藤清正や浅野幸長に守られつつ、京都・二条城で家康と会見を行った。この会見は、豊臣家が家康に臣従したものという見方も可能であるようだ。淀君はこの会見にも反対したが、秀頼自身の意向で会見が実現したらしい。
その後、家康は、「豊臣家を国替えにする、秀頼か淀君を人質として江戸に移す」案を示したが、いずれも淀君の拒否に遭っている。実は、このような交渉には前例がある。
1584年の小牧・長久手の戦いにおいて、家康との講和を望んだ秀吉は、実母を人質として江戸に差し出し、さらに妹を家康の正室として嫁がせた。一方家康は、秀吉からの関東への国替えについて、二つ返事で応じたのだ。
だからこの時点で淀君が家康に譲歩したならば、足利家や織田家のように、石高は少なくなったとしても、豊臣家は存続していたかもしれない。関ヶ原の西軍の大将であった石田三成の子孫さえ家康は根絶やしにはしておらず、江戸時代を生きながらえているのである。
戦争と共に生まれた、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という疾患の根深さ
関ヶ原の戦いの後、事実上、豊臣家の家長となった淀君であるが、歴史の経過を見てみると、徳川方に対してすべて受け身に終始しており、積極的に自ら動くということはほとんどなかった。
これについて桑田氏は、「女だてらの玉砕主義」であり、「自らの面子のために、秀頼と大坂城を犠牲に供したといえなくもない」と述べている。
つまり淀君は、政治的な交渉や長期的な視点を持てない、愚かな女性であったということなのだろうか。けれども彼女の行動パターンには、一定の理由があるように思われる。
戦争神経症という、現在はあまり使用されなくなった病名がある。以前より軍事医学の研究のなかで、戦闘に伴うストレスによって、従軍した兵士にさまざまな心理的障害を発症することが知られていた。第一次大戦において、このような状態が「シェルショック」と命名をされる。
戦争神経症は、現在の診断名でいえば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に相当するものである。
実はPTSDは、戦争と共に生まれた疾患である。2度の世界大戦とベトナム戦争の経験から、戦争が人間の精神を破壊することが明らかになった。その後戦争だけでなく、大規模な災害や犯罪被害においても同様の症状が見られることが指摘され、PTSDとしてまとめられた。
PTSDとは、人が死に至るような体験をした結果、何度もその場面を想起する(これを「フラッシュバック」という)と共に、不安や恐怖感が持続し、睡眠障害、集中困難などが見られる疾患である。
また、きっかけとなった出来事と関係のある場所へおもむくことを避けるようにもなる。さらに、大量死などの場面に居合わせると、感情的な反応が失われる(これを「情動麻痺」と呼ぶ)こともある。
淀君は過去の過酷な経験から、戦争神経症、PTSDを発症していたのではないか
ここからは想像になるが、淀君はこの戦争神経症、あるいはPTSDの症状を持っていたのではないか。2度の肉親を含む大量死の目撃者となった彼女は、戦乱と死の恐怖からいつも逃れられなかったのである。
淀君が徳川方の要求にまったく応じようとせず、かといって自ら積極的に何かを仕掛けることもしないで大坂城に留まっていたのは、ただひたすら戦争、あるいは大量死という事態を避けようした「回避行動」であったとすれば、理解がしやすい。
さらに淀君は危機的な状況においても、まったく指導力を発揮できなかった。
牢人が中心とはいえ、かなりの軍勢を持っていた大坂方である。秀吉の残した膨大な資産もまだ残っていた。徳川方と上手に交渉をしていれば、少なくとも落城して自害という悲惨な結末には至らなかったはずである。
淀君においては、大坂での戦闘が始まって以降、情動麻痺に近い状態に陥り、合理的な感情や思考が失われていたものと思われる。
淀君の評伝を執筆した前出の福田千鶴氏は、彼女をこう評している。
「老獪な徳川家康を相手に毅然として大坂城に君臨し、秀頼を立派に育てあげたことは、残り少ない余生を自覚した家康を焦燥に駆り立てることになり、その結果、招いた大坂の陣でついに茶々は敗北することとなった」(福田千鶴『淀殿』ミネルヴァ書房)。
しかしこのような理解は、誤解であるようにも思える。淀君はそもそも家康と渡りあう技量など持っていなかったし、戦おうとさえしていなかった。あるいは初めから、負けていた。
淀君のしたことは、ただ逃げること、戦乱という現実から目をそむけ、逃れの場所である大坂城に引きこもることだけだった。こう考えてみると、一時は栄華を極めたように見える彼女は、過酷な時代にもてあそばれた哀れな女性であったように思われてならないのである。
(文=岩波 明/精神科医)