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三池純正「歴史はこんなに面白い!」

戦国時代、“糞尿問題”が戦を左右?大量の糞尿で堅城も陥落

文=三池純正/歴史研究家、作家

戦国時代、“糞尿問題”が戦を左右?大量の糞尿で堅城も陥落の画像1七尾城址(「Wikipedia/tom-spring」より)
 戦国時代、城が敵に攻められると、城の近辺にいる住民はいったいどうしていたのだろうか。

 当時の戦争というのは、戦場での合戦だけではなかった。攻めてきた敵の兵士、雑兵たちは領民たちの持つ金品はもちろん領民、特に女子供まで略奪していくのが常であった。戦国時代の軍隊は8割が農民による農兵だといわれているが、彼らは戦争のない時は村で農耕などに従事し、いったん戦が始まると雑兵として従軍した。それは領主の命ということもあるが、彼らが戦争に参加する理由は、攻めて行った先で領主公認のもとに好きなだけ略奪をさせてもらえるからである。中には「戦は一度やったらやめられない」とばかりに、略奪した金品で懐が潤って自慢げに村に帰ってくる兵士もいたことだろう。

 また、攻め行った先々で金品のみならず人を略奪するのは、略奪した人を金で売ったり、連れ帰って奴隷にするためである。まさに当時の戦争の現場というのは殺し合いよりも、このような略奪行為がほとんどで、ある面で彼らは金もうけのために戦争に参加していたといってもよい。

 だが、戦は常に勝つとは限らない。

 もし、負けてしまえば、立場は逆になって今度はたちまち略奪される側になる。勝っても負けても、人々の苦しみは変わらないのである。

大量の避難民が殺到した城内

 この戦国時代というのは歴史上、飢餓、疫病の被害が最も大きかった時代で、彼らが略奪に走るのも生き残るための手段の一つであった。それゆえ、領民たちは合戦になると家族全員を引き連れ、安全な場所に避難した。

 彼らがどこに避難したかというと、基本的には近くにある領主の城に避難した。城は軍事施設であり、敵の攻撃に耐えうるようにつくられており、避難するには最高の場所である。

 また、領民を守ることを責務とする領主も彼らを受け入れる義務があった。戦国時代、日本に来日していた宣教師ルイス・フロイスはその書簡の中で、「町といわず、村といわず、その住民は近くの最も安全で堅固な城塞に引き籠る以外に救われる道はなかった」と述べている。

 さらに領民たちは避難するに当たって、金品を敵にわからないように家の庭先や避難先に埋めた。同じくフロイスは「貧しい村人たちは、米、衣類、台所用品などわずかな道具を地中に埋め」と述べている。彼らは戦が終わったら、それを掘り出して持ち帰るのだが、みんな同じことをやっているため、中には埋めた場所がわからなくなってしまう者もいたことだろう。

 しかし、城の広さにも限度があるため、そこに一度に大量の避難民が押し寄せるとどうなるか。その混乱ぶりは想像に余りある。フロイスはその様子を、「城内には薪も食べ物もあるわけではなく、小さな井戸はたちまち涸れてしまい、一面のぬかるみとなって、悪臭を放つ泥土の上で群衆は雪の世を過ごし、乳児や幼子は飢えと寒さで泣き叫んだ」と克明に綴っている。このように、城内には大量の避難民を受け入れる十分な食糧も水もなく、それに何よりトイレが足りず、飢えと衛生状態の悪さで小さな子供は泣き叫び、さらには老人たちも体を壊す者も多かったに違いない。

 もし、その中で疫病でも発生したら、瞬く間に広がっていき多くの死者を出すことにつながる。これでは敵との戦争に勝つ前に自分たちが先に死んでしまうことになる。

糞尿で落城

 この城内での衛生面の悪さが引き起こした悲劇的な事件が、能登(石川県)七尾城において行われた籠城戦である。それは天正5(1577)年夏のことであった。

 七尾城は当時、能登畠山氏の城であったが、上杉謙信により包囲され、その周辺の領民はことごとく城に避難していた。七尾城は標高約300メートルの山に築かれた城で、山全体に郭が設けられ、かなりの人数を収容できる大きな城であった。

 しかし、それでもあまりにも多くの領民が一度に城に押し寄せたため、糞尿の処理が追いつかず、それがもとで衛生面が急激に悪化して疫病が発生してしまったのである。そして、その疫病はたちまち城内の人々に伝染していき、ついには城主で幼君であった畠山春王丸までもが疫病に倒れ死んでしまったのであった。

 畠山氏は幼いとはいえ、城主である。城内では領民たちよりははるかに衛生面の良い場所に住み、水や食べ物にも注意が払われていたはずである。それでも疫病にかかってしまったということは、城内におけるこの疫病の蔓延がいかにすさまじかったかを表している。城は結局、城主の死で謙信に内通する者が出、やがて落ちてしまう。

 まさに城は、糞尿など衛生面の悪化による疫病によって落城したのである。そこでは、籠城の際の大量の糞尿処理がいかに大切かを物語っている。

「自然」という水洗トイレ

 では、普段城内では糞尿がどのように処理されていたかというと、それを物語る貴重な史料が残されている。小田原北条氏の城であった浜居場城(神奈川県足柄市)という標高600メートル近い山城に出された掟によると、「人馬の糞尿は毎日、城の外に出しなさい。いつも清潔にしておきなさい。遠矢を放って届く範囲の中に置いてはいけない」としている。

 この浜居場城は高い山の上にあって、しかも兵が交代で番をする番城であった。その立地条件から、糞尿の処理は大変面倒な仕事であったことが想像できる。交代でやってきた兵の中にはそれをちゃんと行わない者もいたのであろう。ここからわかるように、城というのは普段からきちんと糞尿の処理をして、しっかりと衛生面の管理をしなければならない場所だったのである。

 しかし、籠城という非常事態はこのサイクルを大きく狂わせることになる。そこでは、大量の人が一度に城に入ることにより、想像もできないほどの大量の糞尿が発生するからである。この処理を誤れば、たちまち疫病が発生し命取りになるだけに、それぞれの城では相応な工夫がなされていたことであろう。

 ちなみに、縄文時代の遺跡として有名な三内丸山遺跡(青森県)では、発掘により谷間をトイレに利用した可能性が指摘されている。つまり、谷間を流れる沢や川の上にトイレを作り用を足していたのだ。まさに、それは自然の水洗トイレであった。

 そういえば、戦国の城が水辺や沢の近くの山に築かれることが多いのは、単にそれを堀にしたり飲料水の確保だけではなく、糞尿の処理として川や沢の水を利用した可能性もあろう。

 水と食物の確保、そしてそれ以上に大量の糞尿の処理をどうするか、それが籠城の生命線であったのだ。
(文=三池純正/歴史研究家、作家)

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