そこで以下に、この日米安保の現状の特異性が、防衛という「財」の配分を歪めてしまっている状況を説明する。
「戦略的代替」と「戦略的補完」
公共財という考え方が経済学にはある。これは公園や道路などをイメージするとわかりやすい。国や地方自治体が運営している公園、または国道や県道などは、多くの人が特段の許可もいらずに自由に利用できる。これを「非排除性」という。
また公園で散策している人がひとり増えたぐらいでは、他人の散策の邪魔になることはない。これを「非競合性」という。
この非排除性と非競合性の両方の性格を備えた財を公共財と呼ぶ。
防衛は公共財の一例とみなされていて、自衛隊による防衛はすべての国民が個別でなんらかの金銭的な負担をしなくとも享受することができるし、守られるべき国民の数が数人増えたからといって既存の自衛力が左右されることはほとんどない。
また、他国との集団的安全保障の枠組みで考えれば「国際公共財」であるともいえる。日本の安全保障をこの国際公共財の観点から、米イェール大学名誉教授の浜田宏一氏は興味深い分析を行っている。以下に、浜田氏の分析を筆者なりに解説する。
例えば、冷戦構造の中では米ソがその防衛という国際公共財の供給を大きく負担し、NATO(北大西洋条約機構)諸国や日本はそれに「ただ乗り」(フリーライド)していた。これを浜田氏は「戦略的代替」と名付けている。
米ソは直接の対抗関係にある。ソ連が軍事的支出を増やせば、それに対抗して米国も防衛のために軍事費を増やす。これは両国の過剰な軍事支出へのプレッシャーになっていく。その結果、米ソは人類を何度も絶滅することが可能なほどの核兵器を保有し、世界各地には両国の軍事基地が点在することは広く知られている。
だが両国と軍事的な同盟関係にある国々は事情が異なる。米ソ両国の過大な軍事支出の傘の下で、それにフリーライドする動機付けが強く働く。例えば、冷戦期のNATO諸国の経済規模に対する防衛費の割合をみると、米国のそれよりはるかに低いことが知られている。
そして、日米安保条約における日本の片務的な防衛のあり方も、フリーライダーの典型的な事例といえる。この戦略的代替が存在する時に、国際公共財の供給は非効率的な水準、つまり同盟国が怠けることで「過小」になりやすい。ここでいう「過小」の意味とは、実際には無駄なほどの核兵器がつくられたり過剰な基地配備が行われたりすることで、無駄な防衛の配分がみられ、最適な防衛力の整備がなされていないということだ。