メニューも多彩で、主食に数種類の副食がついていることも珍しくなく、デザートやホットコーヒーなども楽しむことができる。
古代から、洋の東西を問わず、遠征で将軍や司令官が頭を悩ませた問題が、兵士への食糧補給だ。「腹が減っては戦ができぬ」という言葉通り、十分な食糧が与えられないと、兵士の体力が維持できないばかりか、モチベーションにも影響してくる。
昔は物流手段が少なく、食糧の保存方法も確立されていなかったため、食糧補給が不十分で撤退や敗戦、ということも珍しくなかった。ヨーロッパでも、ナポレオン・ボナパルトが活躍した18~19世紀は、まだ缶詰や瓶詰が活用され始めた頃だ。当時は、パンを焼く窯を荷台に備えた「パン焼き車」はあったものの、原料の小麦を確保するのに苦労していた。
日本の戦国時代は、当然ながらレトルト食品も缶詰も瓶詰もない。そこで、塩漬けの保存食や自然乾燥させた食糧を用いることになる。
当時、兵士が戦場に持ち込んだ代表的なレーションは、「糒(ほしいい:干飯)」だ。これは、単純に炊いた飯を乾燥させたもので、パラパラとしている。それを袋などに詰めて持ち歩くのだが、現場では、そのまま口に入れてポリポリと噛んだり、水を含ませて柔らかくして食べていた。ほかにも味噌や梅干しなど、比較的保存がきいて日常的な食材が好まれた。
また、当時のレーションは支給されるものではなく、「手弁当」が当たり前だった。大名や領主が兵士を動員する時、兵士は同時に武具と食糧を自分で用意することが求められた。
そのため、農民兵は味噌で煮込み、味が染み込んだ芋がらを持ち込むことがあった。これは、食材のほかに縄のようにして使うこともでき、当時の便利食材として知られていたようだ。そのまま口に入れてもいいし、煮れば味噌汁の代用品にもなる。
当時のレーションは、決して種類豊富ではないものの、工夫と知恵が詰まっていたわけだ。しかし、当然ながら問題もある。
戦場で梅干しが重宝されたワケ
例えば、糒は腹持ちはするが、胃腸には優しくない。特に、そのままかじった場合は消化不良を起こすことも多かった。そうなると、戦どころではない。そのため、食糧に恵まれている大名や有力武将ならいざ知らず、足軽などは下痢で戦線を離脱する者も多かったようだ。
また、当時は保存料などもないため、腐敗が進んでしまうこともある。しかし、ほかに食糧がない上に腐敗に気づかなかったりして口にした結果、胃腸を壊してしまう。
そこで重宝されたのは、梅干しだ。薬としても幅広い用途がある食材で、戦場ではまさに万能薬として機能した。現代でも、解熱剤や頭痛薬の代用として梅干しを使用することがあるが、当時は負傷すれば止血剤として、腹を下せば整腸剤として使われた。
梅干しに含まれる塩分に、滅菌効果を期待したのだろう。止血剤にする場合は傷口に塩を塗るようなものだが、その刺激による痛みの緩和も狙っていたのかもしれない。
また、こういったレーションは、足軽などは自分で持ち歩かなければならなかった。装備もあり、レーションの重さで動きが制約されても困るため、持参できる食糧は限られる。腰回りにぶら下げることができ、歩行に支障がない分量ということで、だいたい2~3日分ぐらいが適量だったそうだ。
そのため、戦が長期化すれば食糧難が彼らを襲う。それを回避するためにも、食糧があるうちに決着をつけたい。食糧がなくなってしまえば、継戦は事実上不可能だ。戦国時代に近代的な長期戦が起きにくかった背景には、そういった事情もあるわけだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)