多くの場合、ゲームの中で戦国大名は城を有して割拠し、家臣や有力豪族を従えて国や国の一部を領する支配者となっている。
そこで気づくのは、最初から「国持ち」という大名が少ないことだ。そして、年代順に並んだシナリオの初期設定を見ても、当時の大名たちが容易に「一国統一」にたどり着けなかったことがわかる。
また、ゲーム中で一国を統一する勢力として登場しても、便宜的に一国を代表する大名として扱われているだけで、調べてみると、本当は割拠していたはずの有力大名や豪族が在野や家臣として登録されていることにも気づく。
これは、何もゲームの不備などではない。それほど、戦国時代は「群雄割拠」という言葉がふさわしい時期であり、情勢が複雑だったということを示しているのだ。
戦国初期に複数の国を支配していた大名は、数えるほどしかいない。それらは、鎌倉時代以来の名門や、幕府の弱体化に乗じて中央で権勢を振るうようになった大名だ。九州の大友氏や、中国地方から九州北部にまで勢力を伸ばした大内氏などが代表例である。
一方、戦国時代が終わろうとしているのに統一されていない国も多かった。最有力候補の佐竹氏が最後まで統一を果たせなかった常陸、驚異の粘りで北条氏に屈しなかった里見氏が本拠とする安房などが、それに当たるだろう。
一国以上を統一することができた大名も、多くの場合は一代で急激に版図を拡大させたケースが多い。甲斐一国から信濃のほぼ全域を手中に収めた武田信玄、尾張藩の守護代のそのまた有力家臣という出自から、全国統一に邁進した織田信長などが、それだ。
信長が示す、一国統一の難しさ
信長の軌跡を見ると、一国の統一がどれほど困難だったのかがよくわかる。
信長は、当主になると父譲りの野心で急速に存在感を示すようになる。彼の軌跡を簡単に示すと、清洲織田家の打倒(尾張下四郡の支配)→上四郡守護代・岩倉織田家の打倒→尾張守護・斯波家の打倒、でやっと尾張が統一される。つまり、信長は三度の下剋上を経なければ一国を統一できなかった。
しかし、同時に周辺諸国の動向にも目を配る必要がある。北の美濃は斎藤道三が守護の土岐家を傀儡化して実権を握り、東の三河は足利一門で強大な今川家が実効支配していた。西の伊勢には、国司から戦国大名に“転身”した名門・北畠家がいる。これらの動きも見ながら、国内統一を進める必要があったのだ。
まず、信長は代替わりの隙に乗じて「出る杭」を打ちに来た清洲家を没落させ、次いで岩倉家の打倒に向かう。しかし、父の道三を討った斎藤義龍の支援を受けた岩倉家は粘る。結局、信長は国内統一に10年あまりを費やした。
次いで、宿敵の斎藤家を滅ぼして美濃を併合するのに、またもや10年。さらに義弟・浅井長政が拠る近江の併合に10年だ。信長といえば、スピーディに「天下布武」を推し進めた印象もあるが、「国盗り」は10年ごとに1カ国でしかない。
信玄ですら、甲斐一国の主として信濃併合に挑んだが、対象地域が広大ということもあり、ついに信濃の完全制覇は達成できなかった。
経営やマーケティングの世界では、「スケールメリット(規模を大きくすることによって得られる効果や利益のこと)」という言葉があるが、信長の足跡は、それを体現しているともいえる。近江を制圧して以降、信長の版図は加速度的に広がるからだ。
1582年に起きる「本能寺の変」までの10年弱を見ると、3カ国の支配者だった信長は、畿内を手中に収め、北陸から中国地方など、安土城を中心点として影響が及ぶ地域の支配を、それまでにない速さで進めている。
領土が広がれば、年貢収入が増え、人口に比例して兵員も増強できる。もちろん、信長ならではの革新的な政策も大きく寄与していたと思われる。しかし、それ以前に、スケールメリットが得られるまで勢力を広げられるかどうかが、戦国大名として雄飛できるか否かのターニングポイントだったといえるだろう。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)