日本のプロ野球界を支え続けてきた“名将”が、また一人去った――。
ヤクルト、阪神、楽天で監督を務め、現在は野球解説者としてその“ぼやき節”が多くの人々に親しまれてきた野村克也さんが11日、死去した。
現役時代は南海(現ソフトバンク)で約20年にわたり“不動の正捕手”の座を守り続け、打者としても歴代2位の通算657本塁打を誇るなど活躍。引退後のヤクルト監督時代は、万年Bクラスだった球団に独自の「ID野球」を取り入れ、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一という奇跡を導いた。
「野村さんは戦後初の三冠王に輝くなど球界を代表する名選手でしたが、実は高校卒業後に南海のテスト生として入団したことが、その後長く続くプロ野球人生のスタートでした。母子家庭で育った野村さんの実家は貧しく、入団の際に球団関係者からごちそうになって初めて食べたハヤシライスのあまりの美味しさに涙を流し、一生ハヤシライスを食べられるように一流の選手になろうと決意したと、語っていました」(スポーツ紙記者)
野村さんといえば、2017年12月に死去した沙知代さんとの“おしどり夫婦”ぶりが有名だった。2人は野村さんがまだ前妻と婚姻関係にあった1970年に出会い、その8年後の78年に結婚。かたちの上では不倫関係から始まったといえる。
「野村さんは70年から南海の選手兼監督を務め、その年に試合のために上京して東京・後楽園の宿泊先ホテルの中華レストランで食事をしていたところ、お店の人から紹介されるかたちで、たまたま来店していた沙知代さんと出会いました。すでに離婚して子どももいた沙知代さんは当時、野球にまったく興味がなかったため、野村さんのことも知らず、その場で子どもに電話をかけ『今、野村さんという人と一緒にいるんだけど』と伝えると驚かれたため、野村さんに興味を持ったと本人が語っています。一方の野村さんも、出会った当日か翌日の試合に沙知代さん親子を招待しているので、2人の間には通じるものがあったのでしょう。
その時点で野村さんは妻がいる身だったことは事実ですが、夫婦関係は破綻してすでに別居していたので、妻を捨てて沙知代さんに走ったというわけではありませんでした」(同)
南海監督解任事件
そんな2人が結婚に至るまでには、出会いから8年を要したが、その裏ではある有名な事件が起きていた。野村さんが南海の選手兼監督だった77年、2人の“不倫スキャンダル”、さらには沙知代さんが球場の監督室などに我が物顔で現れて球団運営に口を出していると大々的に報じられたのだ。
「報道を受け、野村さんは後援会の会長から『野球か沙知代さん、どちらかを選んでください』と迫られ、野村さんは『沙知代さんを選ぶ』と答え、結局シーズン途中で監督を解任されました。もっとも、当時は球団運営などをめぐり野村さんとフロント陣との関係が悪化しており、球団サイドは沙知代さんとの件を“野村切り”に利用したともいわれています。実際、当時南海の投手で野村さんと私的な交流も深かった江夏豊は、後年、球場のベンチ裏に沙知代さんが来ていたという事実はなかったと証言しています。
のちに野村さんは当時を振り返って、人生がめちゃくちゃになっても沙知代さんと離れることは考えられなかったと語っています。あれだけ野球一筋だった野村さんが、野球を捨てる覚悟をしてまで沙知代さんとの人生を選択したというのは、それだけ2人はお互いにとってなくてはならない存在だったということでしょう」(別のスポーツ紙記者)
その後、野村さんが阪神監督時代の2001年には、沙知代さんが脱税問題を起こし、監督を辞任する事件に見舞われたりと、たびたび沙知代さんの行動が世間を賑わせることもあったが、2人は最後まで夫婦としてお互いに寄り添い続けた。
「約2年前に沙知代さんが亡くなり、さらにここ数年は、親しいプロ野球関係者の訃報が続き、野村さんも心が弱りがちだったといいます。特に親友の金田正一さんが昨年亡くなったのが、かなりこたえたようでした。
野村さんを知る人の間では有名な話ですが、金田さんは野村さんに会うと嬉しそうに『おーおー』と言いながら野村さんの頬に一発強いビンタを食らわせ、今度は野村さんが金田さん以上に強いビンタを返すというのが恒例でした。沙知代さんに加えて、そんなことをやり合える仲間が次々と他界していくなかで、野村さんが会った人に寂しそうな顔で『●●もいなくなっちゃってさあ……』とこぼす様子もみられたようです」(マスコミ関係者)
野村さんのご冥福を心からお祈りしたい。
(文=編集部)