9月14日に選出される自民党の新総裁は、出馬を表明した菅義偉官房長官が最有力候補とみられている。菅官房長官、岸田文雄政務調査会長、石破茂元幹事長の3人による三つ巴の戦いとなっているが、党内7派閥のうち5派閥の支持を固めた菅官房長官が本命であることは間違いない。
当初は出馬の意思がないとされた菅官房長官の立候補、そして無派閥の同氏を党内の派閥がこぞって担ぐ動きなど、まさに目まぐるしい権力闘争が繰り広げられている。
過去にも数々のドラマを生んできた自民党総裁選挙だが、読売新聞グループのトップである渡辺恒雄氏が生々しい証言を残している。今年3月にNHK BSで放送された『独占告白 渡辺恒雄 ~戦後政治はこうして作られた 昭和編』の中で、渡辺氏は、戦後政治の権力をめぐる攻防とその舞台裏を明かしているのだ。
「“映像メディアによる初めてのロングインタビュー”という触れ込みで放送された同番組は、インタビュアーをNHK政治部記者の大越健介氏が務めています。当時93歳の渡辺氏が語る貴重な証言の数々に、視聴者からは『平成編を早く見たい』という声が上がりました。その後、再放送され、8月には戦争にまつわる話を中心に再編集された『渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~』がNHKスペシャルとして放送されています」(テレビ局関係者)
『独占告白 渡辺恒雄』の中で、渡辺氏は以下のように語っている。
「僕の経験からするとね、まったく生臭い人情、いろいろな意味での人情が、政治を動かしてる、外交を動かしてるな。だから新聞記者というのは、そこまで入らんとわからんわけだよ」
また、近年、政治とメディアとの距離感が問題になるが、「取材する奴が(取材対象に)あんまり近寄っちゃいかんというバカなことを言う奴がいるが、近寄らなきゃネタ取れねぇんだ」と語る。しかし、「『これは本当に書かんでくれよ』と言われたことは書かない」ことで、新聞記者として信頼を得てきたという。
そして、「全部我々にしゃべってくれるようになるんだよ」「池田(勇人)も佐藤(栄作)も大野(伴睦)も、みんなそうだったよ。河野(一郎)、鳩山(一郎)、全部そうなの」と振り返った。
1952年に26歳で政治記者として永田町入りした渡辺氏は、吉田茂首相の番記者からキャリアをスタートさせた。自身の原体験として、以下のような出来事を挙げている。
「もう公然と、僕らの見てる前で現ナマをね、(自民党)総裁選挙の大会を開く会場の廊下でね、僕らの見てるところで現ナマの授受やってんだから」
「大きな風呂敷包みがある。全部現ナマですよ。それで、代議士が次々に来る。開けてね、この束を新聞紙にくるんで渡すんだ」
「(1時間後に)僕が帰るときには、ぺっちゃんこになってるの。中の札束の山がきれいになくなってるのよ」
「最初見たときは、やっぱりショッキングだよ。えらいもん見ちゃったな、隠そうとしないんだから」
「人間が変なことやってる。金の流れがすべて決めてるんだから」
55年に保守合同により自由民主党が結党、いわゆる55年体制の幕が上がる。その後、自民党は派閥による権力闘争を繰り返すことになり、渡辺氏は自民党初代副総裁で大野派の領袖である大野伴睦氏に深く食い込んでいく。大野氏の寵愛を受けて、時には政局の進展や他派閥との交渉まで任されるようになったという。
そして、59年の岸信介政権時に大野氏は次期首相の座を約束されるが、のちに反故にされる。岸政権の目標である日米安全保障条約の改定に大野派が協力する見返りとして、政権禅譲の密約を交わした証文がつくられたのだ。そこには、岸政権退陣後は、大野氏、河野一郎氏、佐藤栄作氏の順で首相に就くことが確認されていたという。
翌60年の自民党総裁選にあたって、渡辺氏は念書の原本を見るために奔走し、岸氏に本意を直撃するなど、大きな役割を果たす。その結果、岸氏が密約を反故にするつもりであることを知り、大野氏に進言。結局、大野氏は出馬を断念し、その後、渡辺氏だけを部屋に呼んで泣いたという。
「『一寸先は闇』『生き馬の目を抜く』と言われる政治の世界を象徴するようなエピソードのひとつと言えるでしょう。今回の総裁選も、一任された二階俊博幹事長が主導して“菅総裁”を生み出そうとしていますが、9月2日には細田派、麻生派、竹下派の会長が共同会見を行い、“二階外し”だとして物議を醸しています。同じ菅氏支持でありながら、党内の主流派の座をめぐって駆け引きが行われているという見方がもっぱらです」(政治記者)
渡辺氏が語った「金の流れがすべて決めてる」という昭和の政治は、令和の時代にも跋扈しているのだろうか。
(文=編集部)