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江川紹子の「事件ウオッチ」第173回

福島原発事故から10年…「被ばくで健康被害」のデマとメディアの責任【江川紹子の考察】

文=江川紹子/ジャーナリスト
福島原発事故から10年…「被ばくで健康被害」のデマとメディアの責任【江川紹子の考察】の画像1
事故当時の福島第一原発電の様子(「Wikipedia」より)

 東日本大震災から10年が経過した。そして東京電力福島第1原発の事故発生からも10年。固唾をのんで推移を見守っていた事故当時の緊張感は、今後も忘れることはないだろう。

国連科学委員会による「被ばくによる健康影響少ない」との報告

 この10年の間に、現地では廃炉に向けた作業が進められ、先月は3号機で、使用済み燃料プールからの核燃料の取り出しを終えた。作業に当たった人たちには、心から敬意と感謝の気持ちを表したい。ただ、溶け落ちた燃料デブリの回収は困難で、今後いつになったら作業が完了するのかは不明。廃炉までの工程は何合目まで来ているのかもよくわからない状況は、10年経っても続いている。改めて、原発事故がもたらす影響の大きさを感じる。

 そんななか、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)が、この事故の影響に関する最新の報告書を発表した。ポイントは大きく分けて2つある。

(1)福島県民には被ばくの影響によるがん発症の増加は報告されておらず、今後もがんが増えることは考えにくい

(2)福島県が行っている、事故当時18歳以下の子どもを対象にした検査で甲状腺がん(もしくは「疑い」)との診断が増えたのは、被ばくの影響ではなく、高精度のスクリーニング検査がなされた結果とみられる

 UNSCEARは、前回2013年の報告書でも、被ばくが原因の健康被害はないとみられる、としていた。今回の報告書では、さらに最新の知見を取り入れ、福島県民の被ばくレベルを再推計した結果、被ばく線量を大きく下方修正した。

 UNSCEARは、1950年代に大国の大気圏内核実験が繰り返され、放射性降下物による環境や健康への影響について懸念が増大するなか、1955年の国連総会決議に基づいて設置された機関だ。米スリーマイル島原発事故(1979年)、ソ連チェルノブイリ原発事故(1986年)のほか、CT検査などの医療における放射線の人体への影響などについても報告書をまとめている。その報告は、ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告やIAEA(国際原子力機関)のガイドライン、日本を含む各国の法律の基本にもなる。放射線被ばくに関して、もっとも権威があり、信頼される国際機関とされている。

 UNSCEAR元日本代表の明石真言・東京医療保健大教授(被ばく医療)に対するインタビュー記事(3月9日付け朝日新聞デジタル、2018年5月12日付けSYNODOS)によれば、委員会は「Science, not policy - independent and unbiased」(「科学に根ざし、政策を取り扱わない、独立かつ公平な立場」)を大原則に、世界中の専門家が参加。今回の報告書は、客観性を保つため、日本以外の専門家が執筆した、とのことだ。

 その結果、今回のような結論に至ったのは、朗報といえよう。報告書の内容が全国各地の人々に伝わり、今も一部に残る福島への偏見が取り払われ、風評被害がなくなることを期待したい。

「被ばく線量はチェルノブイリ原発事故に比べてはるかに低い」ことを報じないメディアの責任

 ただ、これまでも国内外の専門家や機関によって、同趣旨の報告がなされてきており、UNSCEAR報告書の結論は、驚くような目新しい内容というわけではない。これを新鮮な思いで受け止めた人や、「にわかに信じられない」と警戒する人がいるのは、マスメディアがこうした「安心」につながる情報発信を、十分にしてこなかったことも原因のひとつだろう。

 危険に関する情報は、できるだけ早く、大きく、わかりやすく伝え、大音量で警戒警報を発するのが、マスメディアの報道の役割であることは言を俟たない。未曾有の大事故が起きて以降、各メディアが危機的状況を次々に発信したのは、その役割を果たした結果だ。

 その後、時間が経過するにつれて物事の実相は明らかになってくる。そうなれば警戒警報解除の報も、それなりの音量ですべきだろう。にもかかわらず原発事故においては、人々の安心につながる情報は、メディアでは極めて慎重かつ控えめに発信され、しばしば無視されてきた。

 たとえば2017年に日本学術会議が、臨床医学委員会放射線防護・リスクマネジメント分科会による「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題」と題する報告書を発表した時のことだ。この報告書は、国内外の学術論文、国際機関の報告などに基づき、子どもの健康への影響を詳細に検討・審議した結果をまとめたものだ。

 報告書では、被ばく線量はチェルノブイリ原発事故に比べてはるかに低く、甲状腺検査でがんが見つかる頻度に地域差や被ばく線量の違いによる差がみられないことなどから、がんの発見は高精度の調査が大規模に行われた「スクリーニング効果」と考えられる、などと指摘している。

 さらに、「事故による胎児への影響はない」として、この問題については「実証的結果を得て、科学的には決着がついた」と言い切った。次世代への影響についても、「誤った先入観や偏見を正す必要がある」と指摘している。

 ところが、この報告書について報じたのは福島県内のメディアのみで、県外にはほとんど伝わらなかった。全国紙やブロック紙の場合、一行も報じなかった新聞もあり、記事を掲載した朝日新聞、読売新聞も福島県版だけだった。

 メディアは、健康被害への懸念につながる情報、不安を訴える声などは全国版で繰り返し報じてきた。日本の科学者を代表する日本学術会議の報告書は、全国に広がっていた「誤った先入観や偏見」を正すための貴重な情報だったはずだ。

 にもかかわらず、これを伝え控えたメディアの姿勢は、福島に対する差別や風評被害をなかなか払拭できない一因といえるのではないだろうか。

 メディアの消極姿勢を見かねた坂村健・東洋大教授が、毎日新聞のコラムと産経新聞への寄稿で、報告書の内容を紹介し、これを報じないメディアの姿勢を批判している。

〈この報告書はいわば、事故後6年たっての科学界からの「結論」。これを覆すつもりなら、同量のデータと検討の努力を積み重ねた反論が必要だ。(中略)

 マスコミにも課題がある。不安をあおる言説を、両論併記の片方に置くような論評がいまだにあるが、データの足りなかった初期段階ならいざ知らず、今それをするのは、健康問題を語るときに「呪術」と「医術」を両論併記するようなもの、と思った方がいい。そういう転換点になりうる重要な報告なのに、毎日新聞を含めて報道の少なさはなんだろう〉(2017年9月21日付け毎日新聞)

 ちなみに毎日新聞も、記事でこの報告書を報じず、坂村教授が2度にわたって自身のコラムで取り上げただけだ。

風評被害を拡散させたマンガ『美味しんぼ』を繰り返し“擁護”したマスメディアの責任

 UNSCEARや日本学術会議などの機関を含め、科学者が出す報告の多くは、「安心」「安全」など主観が混じる評価には抑制的だ。そのうえ、メディアがこれを報じる際、「不安」を訴える声や「危険性」を強調する意見を、科学的根拠が薄くても、「主流」に対する「異論」「反論」という形で扱うことがしばしばある。

 こうした報じ方は、一見バランスのとれた報道のような外観を整えることができ、メディアは危険性を無視したわけではないという、という弁明にもなる。

 メディアの保身的態度は、科学的な見解についての人々の理解を妨げたり、デマの流布を支えてしまうことにもなりかねない。その典型的な事例が、マンガ『美味しんぼ』(小学館)を巡る騒動での一部メディアの報道だった。

 このマンガでは、福島で鼻血を出す人が増えているかのような描写が執拗に現れ、それが被ばくと因果関係があると強く印象づけたうえで、同県内で行われていた除染は無駄だと主張。福島から「逃げる勇気」を持つよう、住民に呼びかけた。

 鼻血の原因はさまざまであるうえ、福島で鼻血が増えた、とするデータは示されていない。そもそも、鼻血が出るほどの被ばく線量であれば、体の他の部分からも出血するなど、全身状態は悪化しているはずだ。

 放射線防護学の専門家として、日本の原発政策には批判的な野口邦和・元日本大学准教授は、騒動直後から、このマンガを批判。原発事故10年を前に朝日新聞デジタル「論座」に投稿した論考のなかでも、マンガの描写について「デマであり、放射線医学的には最初から議論にもならない低俗な代物」と極めて否定的な評価をしている。

 けれども、当時はこのマンガを擁護したり、否定的な評価をためらうメディアもあった。たとえば毎日新聞。同紙社説は、「『鼻血』に疑問はあるが」と控えめな論評にとどめ、「(この漫画が提起する)原発の安全性や放射線による健康被害を自由に議論すること自体をためらう風潮が起きることを懸念する」と、むしろ批判側を牽制した。

 さらに、雑誌でこのマンガの連載が終了することを社会面で伝えた2014年5月20日の同紙記事は、野口氏の批判コメントに対して、「(被ばくと鼻血に)因果関係がないという証明はされていない」とする疫学研究者の発言をぶつけるなど、あらゆる点において両論併記を展開する記事となった。ちなみに、この時期はUNSCEARが2013年報告書を出した後である。

 また、朝日新聞は繰り返しマンガ原作者の「反論」を掲載。「安全性を検証するための疑問や言葉が封じ込まれ」る懸念を挙げて、「大事なのは、議論すること。私の意見が間違っているというのなら、一緒に議論しましょうよ」という作者の声を伝えた。

 こうした論法は、ナチスによるユダヤ人虐殺や関東大震災後の朝鮮人虐殺を否定しようとする「歴史修正主義者」が、「議論」を呼びかけるやり方に似ている。あり得ない事実を、歴史的事実や科学的な論拠と対等な立場で「議論」の場に載せることで、あたかもまっとうな意見のひとつであるかのように人々に錯覚させる手法である。

 東京新聞も2014年5月14日付けの社説で、『美味しんぼ』騒動を取り上げた。このマンガが表現上の「配慮」に欠けている部分があるとしながら、「問題提起」として評価。マンガを問題視する声を、「時間をかけた取材に基づく関係者の疑問や批判、主張まで『通説とは異なるから』と否定して、封じてしまっていいのだろうか」と批判した。

 デマに類する言説を、「通説とは異なる」意見のひとつとして擁護することが、マスメディアの役割といえるのだろうか。

 朝日新聞や東京新聞などでは、このマンガ以前に、原発事故が起きたあとかなり早い段階から、鼻血を訴える人の声が掲載されてきた。それを評価する読者も少なくなかったのだろう。安全だったはずの原発で大事故が発生し、政府や科学者への不信感が広まるなか、不安を煽ったり危険性を誇張する言説が容易に受け入れられる風潮が蔓延する素地ができていた。

 本来であれば、メディアはそうした不安を受け止めたうえで、「誤った先入観や偏見」を修正する方向の情報も、その価値を吟味したうえで、積極的に、繰り返し、わかりやすく伝える努力が必要だったのではないか。

「被ばくによる健康被害が深刻なはず」デマや偏見が、反原発運動への信用を失墜させる

 マスメディアだけではない。フリーランスの記者や独立系メディアにも、デマを流布したり、予断や偏見を助長する主張を展開する者はいた。

 事故発生から10年経って、福島を巡る「誤った先入観や偏見」は、少しずつ薄らいでいる。消費者庁の調査では、福島県産の食品の購入をためらう消費者の割合は今年8.1%と、調査を開始した2013年2月以降、最低となった。一方、放射性物質検査により基準値を超える食品が流通していないことを知っている人は22.5%で、これも過去最低だった。検査自体を「知らない」と答えた人は6割を超えた。偏見が薄らいでいるのは、最近の情報によって理解が深まったからではなく、事故の記憶の風化によるものといえよう。

 最近になっても、ネット上では「危険」「被ばくによる健康被害が深刻なはず」という思い込みに基づいた発信が続いている。その多くは反原発の人たちとみられる。今回のUNSCEAR報告書に対しても、Twitterで「怒り」を表明するジャーナリストがいて驚かされた。

 放射線防護学者の野口氏は、『美味しんぼ』騒動に関する先の論考のなかで、「鼻血肯定論者」のほとんどが反原発派であることに触れて、こう述べている。

〈事故後に福島県内で鼻血が増えているというデータがないにもかかわらず、被ばくに原因する鼻血が福島県内で大勢いるなどと強弁するのは、反原発運動への信用を失墜させるのではないか。長年にわたり日本の原発政策を批判してきた者として、放射線被ばくの影響を誇大に言い立てる反原発派の一部に見られる非科学的・独善的・排他的な傾向を大変残念に思う〉

 この事故では、多くの人が避難を強いられ、長期の過酷な避難によって命を縮めた人もいる。地震や津波などの直接被害ではなく、避難による心身への負担などが原因となって死亡する災害関連死は、東日本大震災で最も被害を受けた東北3県のうち、福島県が2317人とダントツに多く、直接死の1606人を上回る。2018年に73人、2019年に36人、昨年も20人の新たな死者が加わっており、その被害は今なお進行中だ。さらに、故郷を失った人、ばらばらになった家族はどれだけになるだろう。福島第1原発の廃炉も、核燃料が溶け出したデブリの除去に、あと何十年かかるかわからない。

 原発に反対する理由は、新たな健康被害が起きずとも、現実に起きている被害を見れば、十分すぎるほどある、といえるのではないか。

 今、事故発生10年の節目の時期に、コロナ禍という新たな危機が重なった。被災地の10年に目を向けるだけでなく、危機時の報道のあり方についても、それぞれが振り返ってみる必要があるように思う。もちろん、それは私自身も例外ではない。

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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