元プロレスラーで元参議院議員のアントニオ猪木(本名=猪木寛至)さんが1日、死去した。79歳だった。日本のプロレス界、格闘技界の成長に大きく貢献し、政治家としても北朝鮮への訪朝外交などに取り組む一方、金銭問題などが告発されたびたび世間を騒がせるなど、まさに波乱万丈だった猪木さんの半生を振り返る。
1943年(昭和18年)に横浜市で生まれた猪木さんは、5歳のときに父親が病死した後、実家の石炭問屋は倒産。極貧生活を抜け出すために猪木さんは13歳のとき、一家でブラジルに移住するも、現地のコーヒー農園で早朝から夜までの過酷な肉体労働を強いられる。
しかし、その地で運命的な出会いが猪木さんを待っていた。コーヒー農園での奴隷労働から解放されサンパウロの青果市場で働いていた猪木さんの強靭な肉体が、たまたま興行で現地を訪問していた当時国民的人気を誇っていたプロレスラー・力道山の目に留まり、力道山に誘われるがままに猪木さんは帰国。1960年、17歳で猪木さんは日本プロレスに入門し、プロレスラーとしての人生を歩み始める。
そして同年9月30日、アントニオ猪木としてデビュー戦を迎えるが、その後に猪木さんと共に日本のプロレス界を牽引する存在となるジャイアント馬場と、奇しくも同じデビュー日となったことは、多くのプロレスファンに知られるところである。若き日の馬場と猪木さんは“BI砲”(馬場の『B』と猪木さんの『I』)として、ときにタッグを組むなどして日本プロレスを盛り上げたが、71年に猪木さんは日本プロレスを除名になったのを機に、新日本プロレスを設立。馬場も日本プロレスを退団し、72年に全日本プロレスを設立。以降、日本のプロレス界の歴史はこの2つの団体を土台に形成されていくことになる。
ちなみに新日本プロレスの立ち上げ当時に猪木さんと結婚していたのが、女優の倍賞美津子(87年に離婚)。倍賞は自ら新日の宣伝カーに乗り込みウグイス嬢をしたり、金策に駆け回ったりと、新日設立の功労者としても知られている。
現在では、異なる種目の格闘技選手が戦う異種格闘技戦は珍しくないが、それを日本に定着させたのも猪木さんの功績である。76年、猪木さんは「格闘技世界一決定戦」をスタートさせ、各格闘技界のトップクラス選手との戦いに挑み、“熊殺し”の異名を持つ空手家ウィリー・ウィリアムスやボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメッド・アリらと死闘を繰り広げ、アリ戦は世界各国に中継された。ちなみに、のちに猪木さんはプロデューサーとして「PRIDE」の運営に携わり、これがのちの異種格闘技戦の普及につながっていく。
実業家としての顔
一方、猪木さんには実業家としての顔もあった。新日本プロレスの経営に加えて、マテ茶を輸入するアントン・トレーディング、ブラジルで飼料を生産するアントン・ハイセルなどを経営していたが、赤字がかさんで、これが所属レスラーたちによるクーデター騒動の背景になった。
当時、新日本プロレスの営業部長だった大塚直樹氏は著書『クーデター 80年代新日本プロレス秘史』(宝島社)で、乱脈経営の実態を回想している。1982年ごろからハイセルの資金繰りが深刻化し、選手や社員から資金を集める施策が実行されという。
<ハイセルが金銭を借り入れた会社の商品を、新日本の選手や社員、プロレスマスコミ幹部が半強制的に買わされることもあった>(同書より)
<長野県・蓼科にあった別荘「蓼科ソサエティ倶楽部」の230万円もする会員権は幹部社員から順番に購入依頼が回ってきたし、その後も18万円もする磁気マットレスや、健康風呂マシンが売りつけられたことを覚えている>(同書より)
同著によると、83年6月30日に開かれた新日本プロレス第12回定時株主総会での事業報告書を見た大塚氏は「何だこれは」と思ったという。
<売上が20億円近くもあるのに、繰越利益が725万円しかない。しかも株主配当もなし。報告書にアントン・ハイセルの問題は1文字も触れられていない。興行成績そのものを熟知していた私にとって、噴飯ものの決算だった>(同書より)
ほどなく、長州力、マサ斎藤、永源遥など有力選手が退団し、分裂騒動が勃発する。その後、一部の選手が復帰したのち、今度は佐山聡(タイガー・マスク)、前田日明、高田伸彦などが格闘技路線を志向して退団した。
国会議員としての功績
その後、猪木さんは98年に引退したが、現役時代には国会議員も兼務した。89年、スポーツ平和党を結党して、参議院比例区で初当選する。
国会議員時代の活動で耳目を集めたのは、湾岸戦争時に日本人の人質解放を実現させたことである。90年、イラクはクウェート在住日本人36人を人質としてイラクに連行した。猪木さんはトルコ航空をチャーターして現地に乗り込み、人質は全員が解放された。
「トルコ航空のチャーター費用をめぐっては、猪木さんのスポンサーといわれた佐川急便創業者・佐川清が提供したという情報も流れた。折から佐川マネーが政界を侵食していたため、人質解放にきな臭さが付与されやすい状況でもあった」(全国紙記者)
議員時代には、スキャンダルも起こした。94年に、公設秘書とスポーツ平和党前幹事長などが、政治資金規正法違反や税金未納などを告発したのだ。公設秘書は『議員秘書、捨身の告白 永田町のアブナイ常識』(講談社)を著し、議員会館内での所業や金銭問題などを生々しく描いた。翌95年の参院選に再選を狙って立候補したが、スキャンダルが尾を引いて落選する。
だが18年後の2013年、参院選に比例代表で出馬して当選した。注力したのは北朝鮮への訪朝外交である。19年に議員を引退するまでの6年間に訪朝した回数は、じつに33回に及んだ。国会議員としてのアントニオ猪木さんは、著名スポーツ選手が国会議員に転身する嚆矢となった。だが多くのスポーツ選手出身議員が大政党に所属するのに対して、猪木さんは大政党には所属せず、次世代の党、日本を元気にする会、国民民主党・新緑風会(国民民主党の院内会派)などを渡り歩いた。大政党に所属すれば、当初は陣笠議員としてのステップを踏むことになるが、その慣行を踏襲するには大物すぎたのだろうか。
そんな猪木さんの姿が世間を驚かせたのが、昨年6月にYouTubeへ投稿した動画だった。「元気ですかー!!腸が剥がれちゃったみたいで、また再入院」。その後も、たびたび闘病の姿がYouTubeにアップされたが、猪木さんは昨年11月に放送されたNHK・BSプレミアムのドキュメンタリー番組『燃える闘魂 ラストスタンド~アントニオ猪木 病床からのメッセージ~』で、「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」という難病にかかり闘病中であることを告白。そして闘病生活を明かす理由をこう打ち明けていた。
「本当はこういう映像は見せたくなかったんですけどね。これもひとつの強いイメージばっかりじゃなくて、こんなにも、もろい、弱い。人間としてそういう場面があっても、よかったのかなって」
一方、過去には金銭スキャンダルなどが告発されるなど、猪木さんの金の問題がたびたび世間を騒がせてきたことも事実である。今回は、13年6月5日付当サイト記事『維新の会より出馬、アントニオ猪木の“ダークな”真実…金銭スキャンダルの過去』を以下に再掲載する。
※以下、肩書・年齢・数字等の表記は掲載当時のまま
――以下、再掲載――
7月公示予定の参議院選挙で、元プロレスラーのアントニオ猪木が、日本維新の会から比例代表で出馬することになった。共同代表・橋下徹大阪市長による従軍慰安婦発言などで日本維新の会が逆風にさらされる中、高い知名度を持つ猪木を比例の目玉候補に押し立て、票の上積みを図る考えだ。
猪木はかつて1989年の参院選で自ら立ち上げたスポーツ平和党(当時)から出馬し、初当選。湾岸戦争時にはイラクに渡って日本人人質の解放に尽力するという功績を残したものの、95年の参院選で落選。一期で追われるように議員を引退したのではなかったか。
「『国会に卍固め、消費税に延髄斬り』のキャッチフレーズで当選した猪木は国会ではなんの実績も残せずじまい、91年の都知事選の立候補を表明するもすぐに辞退、さらに女性議員秘書による税金未納告発などゴタゴタ続きでした。選挙の時の集票力だけが既成政党に強い印象を与え、それ以降、タレント議員、スポーツ議員が跋扈するきっかけとなったのです」(政治評論家)
当時、猪木の女性議員秘書の告発本『議員秘書、捨身の告白 永田町のアブナイ常識』(佐藤久美子著/講談社刊/1993年)には、有権者は知っておきたい猪木のダークな真実が描かれているのでいくつか紹介しよう。
ダークな猪木その1:スポーツ平和党は自民党がスポンサーだった
そもそも猪木は89年、スポーツ平和党を立ち上げ参院選に立候補したが、もともと自民党は猪木が設立した新日本プロレスのコミッショナーを引き受けるなど、猪木との関係は深く、自民党とベッタリの関係だった。とくに森喜朗元首相は猪木を党が違うとはいえ、バックアップしていたという。
「(出馬表明直後の)6月22日、自民党の森喜朗先生が、淡い紫色の風呂敷に桐の箱を包んで持ってきました。中には帯封のある百万円の札束が十個入っていました。『選挙資金として、自由に使ってくれ』とのことだったと言います。それはいったん選対本部の金庫にしまわれましたが、いつの間にか丸ごと消えていました」(同書より引用)
結局、その金はアントニオ猪木と猪木の兄が投資するブラジルのアントンハイセル(牧場)に消えてしまった。
猪木が当選後、スポーツ平和党は民社党と統一会派を組むことになった。その理由は、当時、民社党は参院9議席で院内交渉団体の資格を得るには1議席足りなかったことから、自民党の森氏からの「民社党を助けてくれないか」との頼みを受けたものだったという。
また、3年後の92年、元プロ野球選手・江本孟紀が参院選に当選しスポーツ平和党が2議席となった際には、民社党と再び統一会派を組むことの条件として、「猪木議員には1000万円、江本議員には300万円が手渡された」(同書より引用)。スポーツ平和党が選挙資金のために借金を抱えているというのに、猪木はその1000万円を自分のフトコロに入れようとしたのだ(新間寿同党幹事長に指摘され400万円を党に入れることに)。
ダークな猪木その2:イラク人質解放には右翼団体も同行していた
90年には、湾岸戦争直前にイラクに渡って現地で拘束された日本人人質の解放に尽力するという功績を残しているが、もともとの動機は不純で「サダム・フセイン大統領と会ってオイルの権利を手に入れるためだった」(同書より引用)という。
それでも、90年にイラクへ訪問すること3回。12月には猪木の発案でプロレス、サッカー、コンサートを盛り込んだ「平和の祭典」を実施し、人質も解放されることになった。しかし、同書によれば、この時に右翼団体・日本皇民党の幹部が同行し、イラクへの航空機のチャーター代6500万円は佐川急便が払っていたというのだ。
「その後の一連の経過や関係者らの話から、(佐川急便の)佐川清会長が、皇民党の人たちとの同行を条件にチャーター機代を支払うという案を出したことは明らかです。かなり、あとのことですが、この件が問題化したとき、猪木議員自身が私にこんなボヤキをしていました。『皇民党のやつらを同行させるのが条件だったんだから、しかたがねえだろう』」(同書より引用)
この右翼団体は87年、当時の中曽根康弘首相から次期総裁の指名を受けようとする竹下登に対し、「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と「ほめ殺し」の街宣を仕掛けた団体でもある。この処理のために、金丸信、小沢一郎ら竹下派幹部が東京佐川急便の渡辺広康社長に仲介を依頼し、広域暴力団・稲川会を通じて話をつけることになる(これらの事実は92年の東京佐川急便事件の公判で明らかになった)。一説にはこの「ほめ殺し」の街宣を指示したのは、竹下が裏切った田中角栄元首相と同じ郷里の新潟から出てきた佐川急便の佐川清会長ではないかと言われている。
なお、佐川会長はかつて新日本プロレスの大株主で、76年に日本武道館で行われた猪木vs.モハメド・アリ戦ではチケットを大量購入する関係だった。以来、猪木のビジネスに融資約17億円。債務保証が約13億円。スポーツ平和党の立ち上げ時にも1億円の融資を行うなどといった猪木の大スポンサーだった。
ダークな猪木その3:東京都知事選出馬断念の裏で借金がチャラに
猪木が抱えた佐川急便からの借金のうち17億円がチャラになるきっかけとなったのが、91年2月の東京都知事選出馬断念だ。当時の都知事・鈴木俊一は4選出馬を表明。しかし、公明党が当時80歳の鈴木の推薦に難色を示したため、小沢一郎自民党幹事長は4選をめざす鈴木を推薦せず、元NHK記者の磯村尚徳を擁立する。こうした不透明な動きに猪木が出馬を表明(2月7日)。しかし1カ月後の3月12日には突如として、出馬断念を発表した。
出馬断念の理由は後日明らかになる。3月4日、東京佐川急便の渡辺広康社長の宴席で金丸信、小沢一郎、猪木の4者会談が行われており、その場で借金がチャラになる代わりに出馬断念が決まったのだ(結局、鈴木氏が4選を果たすことになる)。
「佐川会長とすれば、これで、金丸・小沢ラインに貸しをつくることができる。赤字会社の一つくらい抱え込むのはなんてこともなかったのでしょう。(略)猪木議員が都知事選を降りた代償として債務免除または放棄を約束したのだとしたら、重大な違法行為のはずです」(同書より引用)
このほか、女性議員秘書の告発本では、約2億3000万円にも上る所得税の滞納。世田谷区にも住民税が5000万円の滞納。相次ぐ差し押さえを受けた事実を明らかにしている。「税金も払わず、借金も払わず、都知事選すら裏取引の道具にする」ダークな猪木の姿がここにあった。
なお、その後、95年にスポーツ平和党の新間寿幹事長も猪木を告発。カンボジア視察旅行での疑惑「アントニオ猪木の夜のPKO」発言を行ない話題を集めた。これが決まり手となって猪木は再選が果たせなかったが、こうしたスキャンダラスさが、従軍慰安婦をめぐる発言でイメージダウンさせている日本維新の会と共鳴してしまったのかもしれない。
(文=Business Journal編集部)