江川紹子が目撃した、不健全で堕落した「安倍首相やらせ会見」…記者クラブは今すぐ是正を
新型コロナウイルスの感染者増加とそれへの対策が、国民生活に大きな影響を与えている今、安倍晋三首相は、国民のためにも、自身の政権の安定的維持のためにも、「広報」のやり方を抜本的に考え直し、それに携わる人員も全面的に入れ替えた方がいいのではないか。また、首相を取材する政治記者たちも、自分たちの存在する意味や取材のやり方を根本から問い直すべきではないか。2月29日、新型コロナウイルス対策で安倍首相が初めて開いた記者会見に出席して、つくづくそう思った(記者会見については、Yahoo!ニュース個人も参照)。
「国民が知りたいこと」より「自分が言いたいこと」
まず、安倍首相及び首相官邸の問題。
政府は(1)全国的なスポーツ・文化イベントの中止や延期の要請(2月26日)、(2)全国すべての小中高校の臨時休校の要請(27日)と、国民生活や経済・文化・スポーツなどに多大な負の影響を及ぼす大胆な対策を相次いで打ち出した。いずれも、安倍首相自身による「政治決断」であると強調されている。
ただ、この問題に関する専門家会議では臨時休校については議論されておらず、多くの患者が出た中国のデータでも、肺炎を発症する子どもの患者は少なく、10歳未満では死者もいない。安倍首相が、「政治決断」に踏み切った根拠はよくわからない。
また、準備をする時間もないまま休校を実施すると、小さな子どもを持つ親が仕事に出られなくなったり、給食の食材を納入している農家や業者が困ったり、学童保育のスタッフが足りなかったり、さまざまな問題やリスクが発生する。このため、多くの人や自治体が不安を抱え、対応に追われ、混乱を来した。
すると、翌日になって、萩生田光一文科相が記者会見で「期間や実施の方法は学習の遅れなどが生じないように学校設置者で工夫をしてほしい」と柔軟な対応を求めるなど、方針の変更ともとれる発言をした。
また、イベントの中止についても、主催者や地域は大きな損失を抱える不安を抱いている。
にもかかわらず、決断をした安倍首相はなかなか国民に対して説明の機会を設けなかった。29日にようやく記者会見を開いたが、19分にわたってスピーチを行った後の質疑では、記者からの質問は幹事社2社(朝日新聞、テレビ朝日)以外は、NHK、読売新聞、AP通信の3記者に限られた。ほかに挙手をしている記者が何人もいるのに、会見を打ち切ってしまった。
私は「まだ質問があります」と声をあげたが、司会の長谷川榮一内閣広報官は「予定の時間を過ぎておりますので」とにべもなかった。
「首相動静」によれば、首相はこの後、私邸に帰っている。他国の首脳との会見や晩さん会などの行事があったわけではなく、家に帰るだけなのだから、「時間」はたっぷりあったはずだ。この国難に当たって、国民生活にも負の影響がある対策を実行するなら、十分意を尽くして説明する責務もある。
「黙って俺について来い」は独裁国家のやり方だ。民主主義国家であるならば、どれだけ対応を急ぐ時でも、「かくかくしかじかなのでついてきてほしい」と、その根拠や理由、あるいは効果や見通しなどを、誠意を持って説明し、国民の協力を求めるのが筋だ。それをできるだけ効果的に、効率よく行うのが、首相の広報対策であるべきだろう。
今回、私が「まだ質問があります」と声を上げた時に、安倍首相が司会者を制して、こう言ったらどうだろうか。
「わかりました。今日は、国民の皆さんの疑問に答えるため、質問が尽きるまで受けましょう」
イベント中止や全国休校に必ずしも賛同していなくても、誠実に国民の不安や疑問に向き合う首相だと感じ、とりあえず信頼してついて行こうと思った人もいたのではないか。おそらく内閣支持率は跳ね上がっただろう。政府の対応を、できるだけ効果的に行うためにも、国民の協力は不可欠なのだから、普通に考えれば、このような対応をとるはずだ。
にもかかわらず、そうならなかったのは、ひと
つは安倍首相自身が、「国民が知りたいこと」ではなく、「自分が言いたいこと」を言うのが広報であると勘違いしているからだ。彼の情報発信はいつもそうである。
“安全な”記者が質問し、官僚の作文で回答
たとえば「桜を見る会」を巡る問題。昨年11月、安倍首相はこの問題で、2回にわたり、立て続けにぶら下がり取材に応じた。2回目は30問を超える質問に約20分間かけて答え、さらに「この点に関して質問ありますか」と促すサービスぶり。「前夜の夕食会の費用は、安倍事務所の職員が1人5000円を集金してホテル名義の領収書を渡し、集金した現金はその場でホテル側に渡した。事務所にも後援会にも、入出金は一切ない」という「言いたいこと」があったからだ。
しかしその後、オーナー商法で行政指導を受けたジャパンライフ元会長が招待されていた疑惑が持ち上がると、記者団がぶら下がり取材を申し込んでも、応じなかった。
「桜を見る会」は、公文書の取り扱いや首相の答弁の信頼性など、国政を巡る重要な問題をいくつも含んでいるとはいえ、国民生活と直結するわけではない。多くの国民は、首相の説明に疑問を感じ、世論調査などでは「首相の説明は十分でない」と答えながらも、政権に背を向けるほどの反応はなかった。首相も、いずれ国民はこの話題に飽きると思っていたかもしれない。
けれども、新型コロナを巡る対策は違う。国民の生活、さらには日本経済の浮沈に直結する問題だ。こうした危機的な状況にはなおのこと、内閣総理大臣が行うべき広報とは、「自分が言いたいこと」ではなく、(1)「国民が知りたいこと」を(2)「迅速に」伝えるものでなければならない。
今回、首相の対応は、どちらの要件も満たさなかった。国民生活や経済に多大な負の影響を及ぼす判断をしながら、説明が遅れた。メディアの「首相動静」によれば、全国一斉の臨時休校の要請をした日には、午後6時40分には官邸を出て、その後の来客もなく、翌日夜は作家の百田尚樹氏らと会食を行っている。
やっと翌々日の午後6時になって開いた記者会見は、先に書いたようなあり様だった。司会が会見を強制終了させたのは、安倍首相が予定外の質問に答えない方針だから、でもあるだろう。
今の安倍政権下では、記者会見で質問する記者はすべて、事前に指名を受け、質問を提出することになっている、と聞く。それに対する回答は、官僚が原稿にして準備し、演台の上に広げておく。本番で、首相はそれを読むだけだ。
安倍首相が冒頭スピーチを行う時は、2つのプロンプターを出しているので、誰もが原稿を読んでいることはわかるし、それを問題だとも思わない。質疑の時間になると、このプロンプターが下げられるのは、首相が臨機応変に答えているように見せかける演出だ。だが、会見の映像を見ればわかるように、首相はしばしば手元の原稿に目をやっている。
国民が、安倍首相の言葉と思って聞かされているのは、実は官僚の作文。首相自身の生の言葉ではない。
事前の質問通知に応じないメディアがあるとすれば、指名はされないだろう。そして、私のようなフリーランスも指名はされず、質問ができない。
2015年9月25日、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を可能にした安全保障関連法を成立させた国会が閉会した直後の首相記者会見では、事前に用意した質問と回答のやりとりが、予定時間より早く終わってしまったのか、司会が「短めにあと1問」を認めた。ビデオニュース・ドットコム代表でジャーナリストの神保哲生氏とあと1〜2人が手を挙げたが、司会は挙手をしていないNHKの記者を指名し、質問させた。官邸広報室からは、首相が困るような質問はしない「安全」な記者と思われたのだろう。
フリーランスに首相会見への出席が許されるようになったのは、民主党政権の鳩山由紀夫首相の時からだ。民主党政権時代は、フリーランスも指名されていた。私も2度ほど質問をしたことがある。事前に質問の通告はしていない。
安倍政権になって、さすがにフリーランスを閉め出すことはしなかったが、質問はさせず、ただ会見場に座らせておくだけ、となった。
なぜなのか。
予定外の追加質問に安倍首相は
おそらく、安倍首相は即興でのやりとりが苦手で、自信がないのだろう。国会なら、すぐ後ろに官僚が控えて、予想外の質問が出てきた場合には、耳打ちをしたり、メモを差し入れたりして助ける。記者会見でも、それをして悪いとは思わないが、しばしばやると、かっこ悪さは否めない。
加えて、事前の質問通告は、首相官邸がメディアをコントロールする手段でもあるのだろう。会見前に質問事項を打ち合わせておけば、突発的な質問で、鋭く追及されるような事態を防げる。
国内で行う記者会見で指名されるメディアの記者は(外国メディアも含めて)、官邸広報室の事前通告の方針に従う。追加質問をしたりして、首相を慌てさせることはない。自ら、取材の自由、報道の自由を放棄してしまっているかのようだ。
ただ、海外で行われるとなると、そうはいかない場合がある。
内戦が続くシリアからの難民問題が論議された2015年の国連総会に出席した安倍首相が、現地ニューヨークで記者会見を行ったのは9月29日。ビデオニュース・ドットコムによれば、日本の報道機関からNHK、共同通信、テレビ朝日の3名、海外メディアがロイター通信と公共ラジオ局のNPR(National Public Radio)の2名が指名され、事前に質問の提出もした。
ところが、ロイター通信の記者は、最初に通告通り「アベノミクスの新3本の矢」との質問をした後、「日本が難民を受け入れる可能性は?」と予定外の追加質問をした。
映像を見ると、通訳のヘッドホンをつけた安倍首相の眉がつり上がり、目が左右に動くなど、その緊張ぶりが伝わってくる。そして、首相は「難民に対する対応の問題であります」と切り出しながら、次のように語り始めた。
「人口問題として申し上げれば、我々はいわば難民を受け入れるよりも前にやるべきことがあり、それは女性の活躍であり、あるいは高齢者の活躍であり、そして出生率を上げていくには、まだまだ打つべき手があるということでもあります」
内戦等のためにやむを得ず故郷を出ざるをえなかった「難民」について聞かれているのに、自らの意思で国外に移り住む「移民」についての見解を答えてしまったのだ。
NPRの記者も、事前には予定されていなかった沖縄・辺野古に基地が作られた場合の環境汚染の恐れについて追加質問。安倍首相はそれに答えず、その後に予定されていたテレビ朝日記者の質問まで割愛して、記者会見を終了させてしまった。
神保さんによれば、海外では政治家はメディア対策として、日頃から厳しい想定問答を用意し、どんな質問が来ても慌てずに対応できる状態を作っておく、という。
トランプ米大統領も、記者会見では自ら記者を指名し、その場で繰り出される質問に答えたり反論したりして、丁々発止のやりとりを繰り広げている。
これに対して安倍政権の日本では、決められたシナリオを読み上げるかのような、まるで緊張感のない記者会見が行われている。ここまで堕落してしまったのは、官邸側の指示に唯々諾々と従っている記者側の責任が大きい、と思う。
質問を通告しておくこと自体は、首相にきちんと準備をして、正確なデータを盛り込み、丁寧に答えてもらおうという点では、メリットもある。ただ、その場合でも、回答が不十分な場合、あるいは新たな疑問がある場合には、さらに質問して、きちんと問いたださなければならない。
ところが、日本の首相会見では、記者たちはそれすらやらない。
新型コロナウイルスについての記者会見も、例外ではなかった。首相は都合の悪い質問には答えなかった。官僚が用意した原稿は、質問には答えずに、冗長な言い回しでごまかす“工夫”がなされていた。
幹事社・朝日新聞の記者の質問のなかには、こんな問いがあった。
「全国の小学校、中学校、高校などへの臨時休校の要請についてお伺いいたします。総理は27日に突然、発表しましたけれども、その日のうちに政府からの詳しい説明はありませんでした。学校や家庭などに大きな混乱を招きました。まず、説明が遅れたことについて、どうお考えになるかについてお伺いします」
これに対する首相の答えはこうだ(長いので、「断腸の思い」などを述べている最初の部分はカットして引用する)。
「何よりも子どもたちの健康、安全が第一である。学校において子どもたちへの集団感染という事態は、なんとしても防がなければならない、そうした思いで決断したところであります。専門家の皆さんもあと1〜2週間(が特に大事)という判断をされた。いわば判断に時間をかけている暇(いとま)は、なかったわけであります。十分な説明がなかった。与党も含めてですね、それは確かにその通りなのでありますが、しかし、それは責任ある立場として判断をしなければなかったということで、どうかご理解を頂きたいと思います」
説明が遅れたことについて聞かれているのに、判断が急だったことについての弁明をしている。全然答えになっていない。
さらに「(休校によって)感染をどこまで抑えることができるのかなどについての見通し」と問われた部分については、回答ではまったく触れなかった。
にもかかわらず、記者たちはそれを問いただすこともせず、次に指名された質問者が、あらかじめ予定していた別の質問を淡々と読むだけだった。
記者クラブの存在理由は
日本の首相記者会見は、かつてはこれほどまでに堕落した会見ではなかった。
昨年11月に亡くなった中曽根康弘元首相は、自分の政治家時代の資料を保管しており、それをそっくり国会図書館に寄贈した。一部は公開が始まっている。その中に、首相時代の記者会見のファイルがある。
それを見ると、記者は事前の質問通知は行っているが、首相がそれに答えた後、追加質問をしている。そして司会はしばしば、最後に「ほかに質問はありませんか」と問いかけ、質問が尽きたのを確認して、会見を終わらせている。
たとえば1986年4月9日に行われた、対外経済政策発表後の記者会見。初めに中曽根首相からの所見表明があり、その後、記者と首相の間で10往復やりとりが交わされている。そして、司会は次のように会見を締めくくった。
「ほかに質問はございませんか。それでは、これで記者会見を終わります」
会見時間は50分間だった。
同年8月9日の長崎市での記者会見では、初めに同行の内閣記者会が4問、続いて長崎市政記者会が5問の質問をし、首相がそれに答えた後、司会はこう述べている。
「関連する質問がありましたらどうぞ」
それに応じて、広島・長崎両市が平和宣言で、核軍縮交渉を被爆地で開催したいと要望したことについて、首相の考えを問う質問が出ている。
こうした質問に対する1つひとつの答えから、首相自身の考えや問題についての理解を知ることができる。その積み重ねの中で、国民は政府を評価し、政治に関する判断をする。
安倍政権で行われているのは、「記者会見」とはとても呼べない。1人ひとりの記者が、官邸の意向にあらがうのは難しいかもしれない。けれども、権力者がメディアをコントロールしようとする時に、それと対峙し、取材の自由、報道の自由を守るためにこそ、記者クラブは存在するのではないか。これが、記者クラブの最大の存在理由といってもよい。
ところが今回、それができていない状況を、多くの国民が知るところとなった。そのために、国民が知りたいことについて、首相に語らせられないのでは、記者としての職務放棄にも等しい。
いい加減に、不健全で堕落した「やらせ会見」はやめにして、まともな記者会見を取り戻すべきである。
そうでなければ、ジャーナリズムは国民にそっぽを向かれるだろう。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)