1945年の日本社会党結党以来、党名を変えながらも75年の長きにわたり日本政界において中道左派路線を歩んできた社会民主党は2020年末、党勢衰退により党所属の国会議員や地方議員、党員、支持母体となる自治労などとの意見の相違から事実上の分裂が決まりました。国会議員では福島瑞穂党首以外は立憲民主党との合流準備を始めています。
ちなみに、公選法が定める2つの政党要件のうち「国会議員五人以上」は満たせず、政党要件喪失になりますが、第25回参議院議員選挙にて比例区の得票率が2%を超えているために、25年の第27回参議院議員選挙までに5議席確保し、それまで所属国会議員が1名以上いれば政党として活動可能で政党助成金も受け取れます。
今回の社民党の受け入れ先となった立憲民主党ですが、17年に民進党から立憲民主党、国民民主党、無所属の会に分裂し、20年9月に国民民主党の一部議員が合流し新・立憲民主党となったことは記憶に新しいです。
その民進党は16年3月に民主党に維新の党と維新の党から分派した改革結集の会が合流し出来た党です。民主党は1998年4月に旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成され、2003年に自由党が合流しました。
「55年体制」と自民党史
一気に説明しても、ほとんどの方は頭が混乱して来ると思いますので一時中断しますが、この様な離合集散を繰り返してばかりで「野党はなんだか頼りない」という声も聞きます。では、現在与党である自由民主党の歴史を見てみましょう。
自民党は1955年に保守合同のため、自由党と日本民主党が合同して結成されました。それ以来日本社会党と約40年に及ぶ保革対立の政治構造は「55年体制」と呼ばれています。
終戦の1945年から結党の1955年までの10年間の離合集散も大変なもので、日本自由党から鳩山一郎などが公職追放され吉田茂が代表就任することで民主党が日本進歩党などと合同し結党、その後一部が日本自由党と合併した民主自由党と民主党へと分裂します。
民自党と民主党は50年に自由党となり、この自由党は“吉田自由党”とも呼ばれます。ここから53年に鳩山一郎、河野一郎、三木武吉、石橋湛山などが出て作られたのが日本自由党で鳩山自由党と呼ばれます。54年には岸信介、鳩山一郎などが日本民主党を結党。この日本民主党と吉田自由党の合併が現在に続く自由民主党になります。この離合集散の理由は政策の違いと言うよりはむしろ、吉田茂に対する派閥抗争であったと言えます。
こうしたことから自由民主党を一つの政党ではなく、派閥と呼ばれる政党が複数集まった長期連立政権と考えることができます。派閥政治は連立政権と同等で、単一の政党に多様性をもたらします。これにより、あらゆる政治変動にも対応し、一政党では本来成し得ない広大な支持基盤を持つ安定した政党が出来るのです。
自民党にとっての党是とは「自主憲法制定」であり「国体護持」であることは間違いなく、これらを「保守」としての芯とする者であれば他のことは自由闊達に議論できる気質を持つ寛容さを持ち、しかし党決定したことは一致団結します。
一議員の考え方よりも党議拘束を重要視することが政党政治と呼ぶのであれば、党是の下に集い、政党として機能しているのは自由民主党と日本共産党しかないと言っても過言ではないでしょう。
つまり自由民主党の中に左派も右派もあり、様々な考え方を併せ持つ政党ではあるけれど保守であることは変わりなく、「自民党以外は革新政党」であるという構造が55年体制であったわけです。
派閥政治の利点と課題
こうしていた理由の一つに選挙制度があります。現在の小選挙区制以前は中選挙区制で一つの選挙区から複数の自民党議席を確保するためには派閥の持つ役割は大きいものでした。派閥内の結束があり所属議員には資金援助をし、新人議員は陣笠議員として各派閥に入り、当選回数、職歴を重ね、派閥の意向を酌みつつ政治活動に勤しんでいました。
当時の中選挙区制における自由民主党は各選挙区で複数の候補者を擁立していたものの、同一選挙区内で同派閥に所属する候補者が複数立つことはほぼなく、同一選挙区における自由民主党の候補者は保守層の票を奪い合うことがありました。
55年体制における自由民主党の派閥は宏池会、木曜研究会、十日会、春秋会、政策研究会の五大派閥に収束していました。当時の中選挙区制で5人まで当選できたため、候補者を集めまとめることができたからです。
こうした派閥の持つメリットとしては、価値観の多様化が進む現代社会では、政党制も支持基盤の多様化に合わせて多党化しないと問題が生じ、小党乱立を受け入れざるを得ない。その時に実効性のある政権を運営するのに、派閥政治の経験は連立政権運営にも役立つと考えられます。
次に、党執行部の独走を牽制し、広く国民意識を取り入れることができます。また、派閥は勉強会の機能も果たしており、若い議員を育成する機能も果たしていました。
逆に弊害としては、派閥力学によって党や国会の役職や閣僚などが割りふられ、適任とはいえない人が大きな役職につく恐れがあること。党内に様々な価値観が形成され、党の方針が国民に伝わりにくくなること。党首が別派閥のリーダーに代わっただけで、政権は変わらず同一政党に握られているのに、政権交代のような錯覚を国民に起こさせること。また、派閥同士の政争が展開し、政策課題に対する政治の関与がなおざりにされること。逆に各派閥首脳同士が結束すると、独裁的な支配も可能となることなどがあげられます。
今や、国民の生活スタイルはその頃以上に多種多様であり、あらゆる生活であっても保守であればその受け皿になってくれる議員を擁する政党は自由民主党だけであるでしょうし、そのために存在する政党であるともいえます。
その自由民主党が政権の座から下りたのは、政治腐敗を招いて1993年の総選挙で過半数割れとなり細川内閣が成立した時と、2009年から2012年の民主党政権の期間です。
この時、自民党を下野させた日本新党の細川護熙、新生党の小沢一郎、羽田孜、新党さきがけの武村正義、鳩山由紀夫などは自民党所属議員であった経歴を持ち、保守議員としての資質を持つといえます。が、新党結成時に自民党に対してのアンチテーゼを用いたことから、反自民色の強い候補者を擁立したことや会派の力を強くするために主義主張の違う党から議員を集めたため、その支持者の影響も受け、本来保守でありながら革新政党としての活動を余儀なくされていく「自民党難民」とも呼べる議員が地方、国政に存在することになりました。
田中角栄のDNAを引き継いだ政治家とは?
自民党結党時までもが吉田茂に対する好き嫌いで離合集散があったのと同様、5大派閥においても好き嫌いで離合集散が繰り返されていました。自民党の歴史において、旧派閥の垣根を越えてこれまでの派閥の枠組みを壊し自派閥に引き込み巨大派閥として力を発揮したのは田中角栄です。その手腕は今でも語り継がれています。
この田中角栄から政治家として直接指導を受け、角栄DNAを引き継いでいる議員は現在では山東昭子参議院議長(自民)、二階俊博(自民)、船田元(自民)、中村喜四郎(立憲)、小沢一郎(立憲)の5名だけで、その中でも田中派として残ったのは小沢、二階、中村の3名です。
田中角栄から次期リーダーとして認められなかった竹下登が金丸信と共に田中角栄病床の隙に立ち上げた新派閥の元となる勉強会「創政会」には、小沢一郎、橋本龍太郎、梶山静六、羽田孜などが集められましたが、小沢一郎の誘いに竹下、金丸にかわいがられていた二階俊博は最初「田中先生から祝福されるものでなければ参加できぬ」と断り、中間派である奥田敬和の竹下派入りの際に合流をしています。
その後の宮沢内閣不信任決議案で小沢一郎、羽田孜、二階俊博などは新生党を、武村正義、鳩山由紀夫などは新党さきがけを結党します。この時に自民を離れた議員や議員秘書たちの政治主義主張は「自民党的保守」であると言えます。
しかし、新党結成時に候補者となった者やその後に新進党などから合流する議員には保守と呼べぬ者も居たのは事実で、小沢一郎は自由党を結党します。
一方、鳩山由紀夫は弟の邦夫と共に二大保守政党を作ろうと私財で民主党を結党しますが、この際に組織票による党勢維持のため、菅直人などと同調してしまい現在に至るまで「革新路線を謳わざるを得ない」状況に追い込まれています。
小沢自由党は自民、自由、公明の自自公連立で与党となりますが、二階俊博が自由党から分裂し保守党を作り自保公連立与党となります。二階俊博はその後、自民党に復党します。これを機に小沢一郎の反自民色は強くなり、政策や主義主張より「自民党憎し」の色が強くなります。
元は自民党時代からこれら議員の秘書で、現在立憲民主党所属の地方議員と話すと、「オヤジについて行っただけなのだが、知らず知らずに支持者が左になっていく……自民党に戻れるものなら戻りたい」と嘆く者も散見されます。これはまさしく「自民党難民」と呼べるのではないでしょうか?
自民党に復党した二階氏が断行した派閥横断の人集め
自民党に復党した二階俊博が行ったのは、田中角栄のような派閥横断の数の論理による人集めでした。小泉純一郎が派閥構造を壊したために多くのグループが生まれることとなり、自民党に入党、復党した行き場のない議員も吸収し強大な力を持つことで今や自民党の実力者として君臨しています。
自民党という党があらゆる生活、経済スタイルの受け皿であることは述べましたが、田中角栄と言えば日中国交正常化がその成果に上げられます。安倍晋三元総理が所属していた清和政策研究会(細田派)は親台湾派であり、中華人民共和国とのパイプは皆無と言って良いでしょう。田中角栄による日中国交正常化以来、日本だけに限らず世界中が中国で供給される安価な部品に依存する経済構造になってしまいました。
二階氏が“断中”スタンスをとれば対中窓口は小沢氏に
日本は輸出国で国際競争力を競うためにも製品単価は重要なのですが、世界中で中国製部品を使用するようになった自動車などの部品を国産に戻すに戻せないジレンマに陥ってます。機械部品だけでなく流通や商社なども中国企業が入り込み、中国を切るに切れない現状で経済を考えた際に現在の反中、嫌中ムードを無視するような態度を経団連が示すのは判らなくはありません。
中国とのパイプは竹下登、橋本龍太郎亡き後、田中角栄から引き継いでいるのは二階俊博、小沢一郎両名で、経団連も中国政府も二階俊博を窓口に交渉をしてきます。
何かと親中派として悪者にされる二階俊博でありますが、彼が断中というスタンスを取った場合、その窓口は小沢一郎にシフトすることになるでしょう。立憲民主党が共産党をも含めた野党共闘を目指している以上、対中国経済主導が保守の手を離れることに不安を私は感じます。
政党政治は明確な主義主張と政策により国民に訴え、その存在意義を示してもらいたいものであるのですが、政局のためであれば主義も主張もない烏合の衆となり、好き嫌いで離合集散するものであってほしくないと切に願うものであります。
※文中敬称略