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実は重臣を自ら殺していた……“水戸黄門”徳川光圀の意外な晩年

新刊JP
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 『LIFE SHIFT』で提唱された「人生100年時代」という言葉はすっかり社会に定着した。その中で問われているのが、どのように人生を歩んでいくかであり、「晩年」という時代をいかに過ごしていくかということではないか。

 どんな晩年を過ごすことが幸せと言えるのか、そのはっきりとしたモデルを私たちはまだ見つけられていないのかもしれない。ならば、歴史上の偉人や賢人はどんな晩年を過ごしたのだろうか。

 『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』(幻冬舎刊)は、高校教師として教壇に立ちながら偉人や賢人の晩節を研究する歴史作家・歴史研究家の河合敦氏が、30人の偉人たちの第二の人生を紹介した一冊だ。

 例えば江戸幕府初代将軍の「徳川家康」。

 よく知られている通り、健康オタクだった家康は若い頃から健康にとても気を配っていたといわれる。乗馬や鷹狩り、水泳などで身体を鍛えつつ、贅沢を避けて粗食を心がけていた。また、薬学に興味を持ち、自分で調合し、健康の維持に努めていたという。そのためか、75歳まで彼は生きている。

 さて、1615年に豊臣家と滅ぼした家康は、その1年後に死去しているが、その最期の1年に、孫の家光を徳川家の後継者に定め、敵対しそうな勢力を徹底的におさえる政策を次々に発している。例えば1615年に発令された一国一城令は、大名の防衛を大きく衰退させた。

 また、水戸黄門の名として知られる「徳川光圀」。

 ドラマでは隠居した水戸黄門が助さん、格さんを連れて諸国を漫遊し、悪を懲らしめるという設定になっているが、実際は関東地方から出たことがないという。また、助さんと格さんはモデルとなった人物は実在するものの、いずれも水戸藩の儒学者であり、ドラマのように武術の達人ではなかったようだ。

 そんな光圀は、隠居してから4年後、人を殺めている。相手は水戸藩の大老をつとめる権力者の藤井紋太夫。あらかじめ能興行にあわせての殺害を計画していたが、何のために殺したかはまったくわかっていないという。そして、この事件から2カ月後、光圀は隠居場所の西山に戻り、二度と江戸にのぼってくることはなかった。

 西山での生活は質素そのものであり、侍医の鈴木宗與に命じて『救民妙薬』を編纂させ、その冊子を多くの村々に配布したそうだ。

 歴史に名を刻んだ偉人たちのリタイア後は、どのような人生を送ったのか。良い晩年、送りたくない晩年さまざまだが、「こんな風に生き抜きたい」というものが見つかるかもしれない。
(新刊JP編集部)

※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。

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