(「週刊朝日」<朝日新聞出版/6月8日号>)
日本一の人気球団・読売ジャイアンツを舞台にした平成最大のお家騒動。この壮大にしてハタ迷惑(?)な物語の主人公が、読売新聞グループ本社代表取締役会長の渡邉恒雄氏だ。「最後の独裁者」とまで呼ばれているナベツネとは、いったいどんな人物なのだろうか。その生い立ちを振り返ってみると、意外な一面が見えてくる(以下、敬称略)。
大正天皇が崩御する約半年前の1926年(大正15年)5月、東京都杉並区で渡邉恒雄は生まれる。渡邉といえば、大野伴睦や中曽根康弘らとの交流、自民・民主の大連立構想の仕掛けなど、保守政治とのコミットで広く知られるが、多くの昭和の知識人がそうであるように、イデオロギーとしてのスタートは左翼思想から始まっている。41年に日本が真珠湾攻撃で宣戦布告をした当時の心情を、開成中学の生徒だった渡邉は後年、次のように回想している。
「僕らのクラスは天皇を『テンちゃん』とかいう呼び方をしていたぐらいだから、天皇崇拝などまったくなかった。教練の教官にも悪質なのがいて、これに対する猛烈な抵抗心があった。僕は先頭に立って反戦、反軍で、橋の上から下にいたその配属将校に向かって『開成のガン』と怒鳴ったことがあったよ」(『渡邉恒雄回顧録』中央公論社)
渡邉と親交が深い、元政治評論家の三宅久之も言う。
「彼は東大哲学科時代に軍に召集され、そこで下士官から、天皇の名の下に殴られ、蹴られたという恨みが原体験になっている。靖国参拝にも批判的ですしね」
戦争体験で天皇制と軍隊が諸悪の根源だと考えていた渡邉は、代々木の共産党本部へ行き、入党を申し込む。「天皇制と軍隊の二つを叩き潰すためにどうすればいいか、それが共産党だと思った」と後年語っているように、渡邉はバリバリの左翼だったのである。事実、この時代に芽生えたイデオロギーは、今も渡邉の思想基盤として残っている。『菊とバット』などの著者として知られ、渡邉の政治部記者時代に、彼の英語の個人教授をしていたというロバート・ホワイティングは、渡邉から聞いた「皇居なんて潰して、全部駐車場にしたらいい」との言葉が今も印象に残っているという。当時はすでに、大野伴睦という与党の大物に可愛がられ、保守政治に深く関与していた時期であった。
渡邉はその後、東大の細胞キャップとして東大内の共産党員約200人の学生のトップに君臨して活動を活発化させるが、最終的には派閥抗争に負けて除名処分となる。この体験が、渡邉の深層に深くトラウマとして残ったと指摘する声は多い。かつて読売新聞社会部で渡邉の後輩記者として在籍した文芸評論家の郷原宏は、「こうした体験が、屈折した左翼イデオロギーとして今も渡邉さんの心象に残っている」と指摘する。